ザ・ローマ帝国の興亡 第五話 コンスタンティン 世界初の巨大帝国ローマはいかに頂点を極め、滅びたのか。 ローマ帝国の興亡を6つのエピソードで綴るスペクタクルシリーズ。暴君・ローマ帝国第5代皇帝ネロの真実に迫った第1話「ネロ」から、東ゴートの侵入によって滅亡に向かう西ローマ帝国と皇帝・ホノリウスの最期を描いた最終第6話「西ローマ帝国の滅亡」までを描くなかの第5話「コンスタンティン」。古代ローマ時代の文献に基づき、歴史家の監修を経て制作されている。 4世紀初頭、ローマ帝国は存亡の危機に直面していた。広大な帝国は分割され、東西各2名ずつ4人の皇帝が統治し、激しい権力争いを繰り広げていた。 1人の男が帝国を統一する。彼は帝国のあり方を変え、ローマに最大の遺産をもたらした。それは新しい宗教 – キリスト教である。コンスタンティヌス1世の生涯について描かれている。
ザ・ローマ帝国の興亡 第五話 コンスタンティン
あらすじ
312年秋 コンスタンティン(以下当サイトではコンスタンティヌスと呼ぶ)はローマの北部にいた。西の皇帝である彼は、敵対するマクセンティウスとの決戦を控えていた。 軍にはキリスト教信者の学者ラクタンティウスがいた。ラクタンティウスはコンスタンティヌスが信仰に目覚めることを願っていた。 もう1人の西の皇帝マクセンティウスは、6年間ローマを占領し暴政を強いていた。マクセンティウスは決戦を前にローマの神々ジュピター、アポロ、マーズへ伺いを立てた。 312年10月27日、コンスタンティヌスはローマへ進軍した。マクセンティウスはシチリアとカルタゴから数万の兵を増強しているから進軍は延期した方がいいと報告を受けた時に、隕石が落下した。ラクタンティウスはお告げだと叫ぶ。 これが隕石だったかどうかは不明だが、重要なのは真実よりも解釈であった。ラクタンティウスはコンスタンティヌスに、あれは神のお言葉、旗印です。太陽の前に見えた印をあらゆる兵の盾に記せばきっと勝利がもたらされると進言する。 コンスタンティヌスは、全兵士の盾に旗印を描くことを命じたが、キリストのイニシャルの旗印は、ジュピターの怒りを買うのではないかと恐れたいた。 キリストを意味する旗印で戦うなど前代未聞だった。ローマ兵は古来の神々の下で何百年も戦っていたのだ。しかしコンスタンティヌスに怒鳴られ、皆急いで旗印を描いた。 ローマのマクセンティウスも戦いに備え、テヴェレ川に掛かるミルウィウス橋に細工をした。 312年10月28日、夜明け直後コンスタンティヌス軍はローマの北に陣を張った。75,000を超えるマクセンティウス軍がミルウィウス橋の対岸で待ち受けていた。(ミルウィウス橋の戦い)。大勢の兵士が橋を渡り、マクセンティウス軍はマクセンティウスの仕掛けた細工によって川に落ちるか戦死しコンスタンティヌス軍が勝利を治めた。 暴君マクセンティウスは死に、コンスタンティヌスはローマ市民にマクセンティウスが奪った土地、権利、名誉などすべて返還し、元老院にもかつての権限を戻し、西方の正帝となった。 次にコンスタンティヌスはダイアとリキニウスの争いが続いていた東方の安定を狙った。 コンスタンティヌスはリキニウスと同盟を結んだ。 313年1月、リキニウスのもとにコンスタンティヌスの妹コンスタンティアを嫁がせた。コンスタンティアはキリスト教徒だった。 コンスタンティヌスはリキニウスに、帝国は現在のような4つでなく2つに分割することを提案する。また、新しい政治同盟の象徴として帝国の寛容さを示す勅令 – あらゆる宗教の自由を認める – をともに出すことも提案する(ミラノ勅令)。 東方はキリスト教徒が多いため、信教の自由を許せばキリスト教徒の支持をえられると、リキニウスも賛成する。 リキニウスは4ヶ月の戦の末ダイアを倒し帝国の東部を手中に収めた。 帝国全土に平和が訪れようとしていた。この時期のコンスタンティヌスの考えは不明だが同盟への疑問を募らせていたと思われる。キリスト教へも傾倒していった。 315年7月25日、ローマ コンスタンティヌスの次なる行動が伝統的勢力との対立を招いた。コンスタンティヌスの功績をたたえる祝典での出来事だった。 「内乱続きだったローマ帝国に私が平和をもたらした。元老院議員たちローマ市民の諸君は私にこの凱旋門(コンスタンティヌスの凱旋門)を捧げてくれた。自分自身をこの栄光ある都に捧げる。ここは不滅の帝国だ。帝国は唯一。神は1人。皇帝も1人だ。」 この日はローマ古来の神々のためにいけにえの儀式も予定されていた。コンスタンティヌスは「こんな儀式は無意味だ。神々は死んだ」と言ってとりやめた。 古来の神々に対する攻撃は続いた。国の資金でサン・ピエトロ大聖堂など多くの教会を建立した。 それを我らの神々への冒涜にほかならない。コンスタンティヌスを止めようと、元老院の意見をバッシアヌスがコンスタンティヌスに伝えに行く。 ローマ帝国東方ニコメディア 元老院は力を弱め道を求めてキリスト教に改宗するものもいる。それは天国への道ではなく出世への道だとリキニウスは言う。 キリスト教だけを擁護するのはミラノ勅令に反する。コンスタンティヌスの首と引き換えに西方を与えると元老院に伝えろとバッシアヌスがリキニウスに言う。 バッシアヌスは刺客となりコンスタンティヌスのもとへ行くと、コンスタンティヌスは驚くこと無く迎え、バッシアヌスは逆にコンスタンティヌスの側近に殺される。コンスタンティヌスはもう神以外は誰も信じなくなった。 コンスタンティヌスとリキニウス、2人の皇帝による帝国の魂を賭けた戦いは長期に及んだ。ローマ古来の神々とキリスト教との戦いだった。 316年の初戦は両軍とも決め手に欠け、決着を見ずに終わり、7年間平和が続いた。だがキリスト教の司祭が惨殺され再び戦争となった。 324年9月18日、決戦は現在のトルコで行われた。コンスタンティヌスの秘策が両軍の均衡を崩した。キリストを描いた神の旗印を大きく掲げた。それはリキニウス軍を恐怖に陥れたと言われている。コンスタンティヌス軍は勝利した。 リキニウスに嫁いだコンスタンティヌスの妹コンスタンティアがリキニウスの命乞いをした。コンスタンティヌスはリキニウスの命は助け、降伏させ、平和な余生を送らせた。 ギリシアのテサロニキでリキニウスとコンスタンティアと子どもたちは幸せな隠居生活を送っていた。が、コンスタンティヌスの命を受けたものらがリキニウスと息子を殺害した。 325年6月19日、ニカイア公会議 血せんから8ヶ月後、キリスト教の司教による会合が開かれ、この時にまとめられた教義は今もキリスト教の基礎となっている。 リキニウス殺害の数ヶ月後、コンスタンティヌスの妻ファウスタは浴室で謎の死を遂げた。コンスタンティヌスの命令とも言われている。 ラクタンティウスはキリスト教国家の実現前に死亡。現在彼の文書は重要な資料である。 コンスタンティアは兄コンスタンティヌスの宮殿で暮らした。夫と息子を殺した兄を許したか否かは定かでない。 ローマ帝国初のキリスト教皇帝は、337年に死亡。ローマ皇帝の中ではコンスタンティヌスの遺産が最も長く後世に残った。コンスタンティヌスの影響でキリスト教が西洋諸国に広まった。DVD
「ザ・ローマ帝国の興亡」に関係する作品と登場人物
- ザ・ローマ帝国の興亡関係人物 – 世界の歴史まっぷ
- ザ・ローマ帝国の興亡 第一話 ネロ – 世界の歴史まっぷ
- ザ・ローマ帝国の興亡 第二話 シーザー – 世界の歴史まっぷ
- ザ・ローマ 帝国の興亡 第三話 革命 – 世界の歴史まっぷ
- ザ・ローマ 帝国の興亡 第四話 ユダヤ戦争 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ
- ザ・ローマ帝国の興亡 第五話 コンスタンティン 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ
- ザ・ローマ帝国の興亡 第六話 西ローマ帝国の滅亡 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ
テトラルキアの背景
ローマ帝国では285年より、東西各2名ずつ4人の皇帝が統治(テトラルキア)していた。 305年、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは20年の統治を終え、ともに退位した。同時に副帝であったガレリウスとコンスタンティウスは正帝に昇格し、新たにマクシミヌス・ダイアがガレリウスの副帝(東方)に、フラウィウス・ウァレリウス・セウェルスがコンスタンティウスの副帝(西方)に選任された。ここに第2のテトラルキアが形成されたのである。

コンスタンティヌスの凱旋門

