ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 ファイナル シーズン
ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 ファイナルシーズン

ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 ファイナル シーズン 全話あらすじ

ドラマ


ボルジア家 愛と欲望の教皇一族

ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 ファイナル シーズン

アカデミー賞受賞のジェレミー・アイアンズ演じる、見識と狡猾さを兼ね備えたアレクサンデル6世(ローマ教皇)が帰ってきた。全10話からなる「ボルジア家 愛と欲望の教皇一族」ファイナルシーズンは、最終シーズンにふさわしい、心奪われるストーリー。教皇は、自分を裏切った枢機卿たちへの復讐を固く心に誓い、教皇の座を世襲制にしようと奮闘する。しかし血気盛んな子供たちは自らの権力をつかみとろうと、それぞれの思惑を巡らせていく。兄チェーザレ(フランソワ・アルノー)は今や危険分子のような存在となり、妹ルクレツィア(ホリデイ・グレインジャー)はナポリの王位継承争いに身を投じていくのだった。そして2人は、自分たちを破滅に追い込むほどの強い愛の衝動に突き動かされ、ついに…。見た者をを虜にする情熱と栄華に彩られた世界観。史上最も権力に愛された一族、「ボルジア家」の最終章が幕を開ける。

ロドリーゴ・ボルジア ローマ教皇の君臨

イントロ

ロドリーゴ・ボルジア(アレクサンデル6世)は、教会の歴史に悪名を刻んだ教皇。イタリア中から愛され憎まれた男。あらゆる手段を講じて教皇の座に君臨し続け敵を打ち倒し家族を守った。裏切り・誘惑・賄賂・愛・屈辱・聖職売買・着服・妨害・拷問・暗殺・死。

政略結婚

ロドリーゴは主な外交戦略として政略結婚を使った。結婚は政略と財政そのものだった。有利な同盟を結ぶために、対ペーザロ、幼いホフレも政略結婚に使い、対スクイッラーチェ、 対ナポリ、対ガンディア、対ヴァランティノワ、対フランス。

王位継承の承認

教皇は王位の承認権を利用し1494年のシャルル8世(フランス王)のイタリア進軍を回避した。教皇はシャルル8世にナポリ王の冠を約束しローマを守ることに成功する。

婚姻の無効

婚姻の無効には教皇の承認が必要とされていた。ルイ12世(フランス王)が婚姻の無効を望んだため、チェーザレはてフランスへ行き、王の婚姻無効を認める特免状と引き換えに多くの対価を受け取る。
ルクレツィアと結婚したペーザロ伯ジョヴァンニは性的不能を理由に結婚は無効となった。

破門

1498年、教皇はジロラモ・サヴォナローラを破門し異端者として火刑に処した。大富豪メディチ家は教皇に救われ、フィレンツェに蔓延した清貧思想は荒廃した。

謀殺

預かっていたオスマン帝国のスルタンの異母弟ジェムの件など、金のための殺人なら教皇みずから手配することもいとわなかった。

15世紀のローマの食卓

本作には宴の席が何度も登場する。出席する貴族や枢機卿、教皇に振る舞われる料理は高価な食材がたっぷり使われ豪華に飾られている。今では見ない光景だ。
この時代の宴は、貴人たちを招待し食事を楽しむ、または彼らの出生や裕福さを周知する目的で開かれた。宴はパフォーマンスの場でもあり、料理を決める上で重要視されたのは高額な費用をかけ豪華に飾ることで、味ではなかった。本作ではワインが頻繁に飲まれる。ワインは15世紀以前から地中海周辺の主な飲み物で、赤ワイン、白ワインの他多くの種類があった。彼らはワインの良し悪しや価格にとても敏感で、高級ワインを好み、ぶどう園はいたる所に存在していた。ワインが好まれた裏には、まだ病原菌の知識がなく、単に水は危険だと認識していたからで、飲水には細心の注意を払い、匂いや味を確かめ、濾過したが、それでも病気になることがあった。
食卓を囲むシーンではテーブルの中心にフルーツボウルが置かれ、撮影に使われた果物はどれも美しく17世紀の絵画に登場しそうなものばかりだが、これらは15世紀に存在しない品種で見た目も異なった。例えばバナナは大きく色鮮やかで種のない改良された品種を使用しているが、15世紀のバナナはもっと小さくくすんだ色で硬い上に種もあった。
もし15世紀に存在した果物を撮影で忠実に再現したら、色は悪く小ぶりで不味そうで果物に見えず、視聴者は違和感を感じる。
ルクレツィアのフォークが本作で注目されていたが、これは時代背景とも一致する。食事マナーの進化は遅く、この頃は主に手を使って食べていた。宴の席では手が清潔であることを互いにアピールするため、みんなの前で手を洗っていた。フォークを使えば料理を触る必要が無く、誰も持っていないものを使う喜びを味わえ清潔で周りに好印象を与えることができたためフォークは15世紀頃貴族間で広待っていった。
狩りのシーンは、15世紀の貴族の生活を忠実に表している。貴族は狩りに夢中で、狩りは乗馬や武器の技術を披露するための場であり、高級な服を着て楽しい時間を過ごす場であった。時には女性も同行しピクニックを楽しみ、狩りをする場所は貴族の狩りのためだけに厳重に保護されていた。
当時重んじられていたのは食料に感謝し、食卓を囲み季節や食欲を感じることだった。食卓を囲み、人と集うことが大切であった。

相関図

ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 ファイナル シーズン
ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 ファイナルシーズン 相関図

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ボルジアにかかわるルネサンス都市

ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 ファイナル シーズン
ボルジアに関わるルネサンス都市

ヴェネツィア共和国

東方貿易が盛んだったヴェネツィアも1500年頃になると、オスマン帝国に東方領を奪われて危機に。そこからアレクサンデル6世による聖戦が行われる。

フォルリ

教皇軍総司令官となったチェーザレによりフォルリは陥落。カテリーナとの因縁の戦いに決着がつく。

ナポリ王国

教皇庁はフランス王家との同盟によりナポリ王家を脅かした。結果、ナポリとの同盟で政略結婚したルクレツィアの立場は微妙になる。

ヴァチカン (サンタンジェロ城)

ヴァチカンとサンタンジェロ城は、秘密の通路で繋がっている。ドラマでは教皇が枢機卿を脅す場所として登場する。

フィレンツェ共和国

ダ・ヴィンチなど歴史的文化人を数多く排出し発展した都市。ドラマではマキャヴェリがチェーザレと外交折衝を行なっていた。

ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 シリーズ

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ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 ファイナル シーズン 全話あらすじ – 世界の歴史まっぷ

あらすじ

第1話 死の顔

教皇が生死の境をさまよう中、家族はその権力を守るために奔走する。

教皇が生死の境をさまよう中、枢機卿たちは死臭に群がるカラスのように、次の教皇はローマ人に、ボルジアの財産や土地が欲しいなどとばかり話し、教皇の命を案じるものはいなかった。カテリーナ・スフォルツァはボルジア家全員を暗殺するためルフィオを使う。

教皇暗殺事件

現代では1978年に教皇ヨハネパウロ1世が暗殺されたと噂されているが、暗殺は秘密裏に行われるので露見しにくいため確認されていない。未遂であるならばなおさら分からない。記録が少ないからといって暗殺が企まれなかった訳ではない。実際、1517年、教皇レオ10世(ロレンツォ・デ・メディチの次男ジョヴァンニ・デ・メディチ)に対する暗殺計画が明るみに出ている。首謀者のアルフォンソ・ペトルッチ枢機卿(チェーザレに暗殺されたパンドルフォ・ペトルッチの息子)は処刑されたが、ラファエーレ・リアーリオ枢機卿(教皇の父に対する暗殺未遂事件にも関係していた)は、サンタンジェロ城に投獄された後、レオ10世に赦されている。なお、この裁判を仕切ったのは、チェーザレの家庭教師を務めたこともあるフランチェスコ・レモリーネス枢機卿だった。

ジュリアーノ・デッラ・フォーヴェレ

謹厳実直な雰囲気を漂わせ、軍事行動などには慣れていないかのようなジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿だが、実際には教皇庁の軍事行動を担当し、女性関係も派手、複数の高級娼婦を愛人に持ち、梅毒のために膝が不自由であった。彼は1443年に貧しい家に生まれたが、伯父のフランチェスコ・デッラ・ローヴェレがフランチェスコ修道会で出世するに従って引き立てられ、伯父が教皇になるとおじの力で枢機卿に就任した。シーズン1では、フェルディナンド1世(ナポリ王)に、王の処刑した貴族たちのミイラを見せられ、唖然としていたが、史実では、あのミイラが作られるきっかけになった反乱を影で扇動していたのは、ジュリアーノその人である。ユリウス2世(ローマ教皇)となった後でも度重なる軍事遠征を行い、教皇の宗教的な権威を失墜させた。また、芸術家たちを支援したことで知られている。

アスカーニオ・スフォルッツァ

ドラマでは彼に対してカテリーナ・スフォルツァが優位に立っているかのような描写がなされているが、史実ではこれは考えにくい。カテリーナは女性であり、リアーリオ家に嫁いでいるため、ミラノ公国を支配するスフォルツァ家のナンバー2、教皇庁の事務局長とも言える書記局の長の地位にあった枢機卿のアスカーニオには頭が上がらなかったはずであるからだ。アスカーニオは1455年生まれ、20代の頃には、兄のイル・モーロとともに長兄のガレアッツォに反乱を企て、イル・モーロがミラノの実権を握った直後にはイル・モーロに対しても反乱を企てるなど、落ち着きがなかったが、1492年の教皇選では同盟者ロドリーゴ・ボルジアを教皇に押し上げることに成功するなど、この頃が政治家として最も油がのっていた。

舞台裏 戦の始まり

教皇を救うために何をするか。ルクレツィアが偶然読んでいた解毒法。ここで彼女が毒に興味があると分かる。黒魔術がこのファイナルシーズンの鍵となる。
ルクレツィアは毒殺者として歴史に名を残している。
ファイナルシーズンは戦いが主軸となっている。戦う相手は枢機卿やカテリーナ・スフォルツァ、そして教皇の継承権を持つローマ人。絶対権力を持った者は、身に迫る危険をひどく恐れる。

第2話 粛清

枢機卿団の粛清を進める教皇に、更なる陰謀が迫る。殺し屋ルフィオは反ボルジアを掲げる者たちに同盟を呼びかける。そしてルクレツィアは、兄に対する特別な感情に気づき始める。

やっと毒が抜けたアレクサンデル6世はまたも命を狙われる。

サンタンジェロ城

ローマ帝国の五賢帝の一人、ハドリアヌス(ローマ皇帝)の霊廟として建設された。しばらくすると軍事施設として使用されるようになった。城の上には、この城の名前の元となった大天使ミカエルの大きな像が置かれている。これは、590年にペストがローマを襲った際、グレゴリウス1世(ローマ教皇)の前に大天使ミカエルが現れてペストの終焉を告げたという伝説から造られた。13世紀のオルシーニ家出身のニコラウス3世(ローマ教皇)が造らせた通路により、ヴァチカンとつながり、有事の際にはここを伝って城に逃げ込むことができた。これは、城の周辺がオルシーニ家の勢力範囲だったせいでもある。なお、ドラマの主人公である教皇アレクサンデル6世(ローマ教皇)がこの城を大改築し、強化したことは史上名高い。

枢機卿の粛清

枢機卿の表立った粛清、つまり通常の罷免は歴史上数例ある。ラファエーレ・リアーリオ枢機卿(シーズン3「教皇暗殺未遂事件」参照)などの場合がそれである。なお、彼は、後に枢機卿に復帰している。一方、アレクサンデル6世(ローマ教皇)の場合、史実上でも秘密裏に教皇が枢機卿を暗殺、つまり粛清した可能性のあるケースがいくつか報告されている。たとえばオルシーニ家の枢機卿だが、一族が教皇の息子チェーザレに対して反乱を起こしたために、チェーザレの意に反して、おそらく教皇が、強引に彼を毒殺している。また、ヴェネツィア出身の裕福なジョヴァンニ・ミキエル枢機卿も同教皇により毒殺された可能性があると思われる。もちろん財産は教会に没収された。

ローマの名家

ドラマで名前があがっているのは、実は当時のイタリア全体での名家である。スフォルツァ家はミラノの公爵家だった。彼らは、元来は教皇に敵対する反教皇派(皇帝党)に所属していた。ヴィテッリ家は北イタリアのチッタ・ディ・カステッロの名家、ただし教皇庁とは対立関係にあった。バリョーニ家はペルージャの名家、ここも教皇庁とは親密でなかった。そのために両家とも、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレに支配地でクーデターを起こされている(全て失敗)。エステ家はルネサンスの中心地の一つ、フェッラーラの支配者だった。ピッコローミニ家はシエナの貴族で皇帝党の所属だったが、2名の教皇を輩出している。本来のローマ貴族は、この中ではオルシーニ家とコロンナ家しかいない。前者は教皇党に所属し、数名の教皇と多数の教皇軍司令官を輩出し、後者は皇帝党に所属し、1名の教皇を輩出している。

舞台裏 暗殺計画

教皇は周囲に疑心を抱き、枢機卿の中から裏切り者を探し始める。枢機卿に襲われるシーンはフィクションだが、戦いに慣れて無く、若くもない枢機卿と教皇の争いは醜く滑稽な戦いになることを表現し、見事に迫力あるシーンが出来上がった。

第3話 兄と妹

ヴァチカンを離れることになった枢機卿の一人が宝物庫に火を放ち、財産を持ち去ってしまう。一方、挙式を終えた夜、ある争いで傷ついてしまうルクレツィアを兄チェーザレが慰め…。

シャルル8世の後を継いだルイ12世(フランス王)の大使がヴァチカンを訪れる。和平と引き換えに、教皇にルイ12世の婚姻の無効を認めて欲しいと持ちかける。
チェーザレとルクレツィアは求め合う気持ちに気づき、抗えない引力に身を任せた。2人には敵が多い。父親でさえルクレツィアに望まない結婚を押し付けた。チェーザレも軽視される。父親との対立が起爆剤となり兄妹の絆が深まる。一線を越えたら兄妹関係は崩壊する。元通りにはならない。兄妹の縁を切るかより親密になるか。危険な場所であるが父親との確執を逃れて安心できる唯一の場所だった。

チェーザレとルクレツィア

チェーザレとルクレツィアの近親相姦に関しては、むしろ文学的な問題であり、史実上はなかったというのが定説である。ボルジア家は、スペイン王家との関係が悪化した後、故郷のスペインでは細々と自らの所領、ガンディアの公爵領を維持することしか望めず、それゆえにイタリアのローマを中心に勢力を伸ばしていく他なかった。しかし、いかに教皇を輩出したからと言って、外様の彼らはイタリアでは少数派でしかなく、親族を出世させることで自らの地位を守ろうとし、結局はそれが、他のイタリアの王家、貴族の反感を買う原因となった。その後の歴史的展開の中でイタリアはスペインやフランス、オーストリアなどの外国の支配に屈して悲惨な歴史を歩んだため、スペインからやってきた、もはや歴史の表舞台から消えたボルジア家も、実際の姿以上に、倫理的に退廃した姿に描かれたのである。

ルクレツィア2度目の結婚

ルクレツィア・ボルジアは1480年4月18日に生まれた。1475年生まれのチェーザレより5歳下である。少女時代には母親のもとから離され、ロドリーゴ(アレクサンデル6世)の親族、アドリアーナ・デ・ミラのもとで育てられた。そのアドリアーナの息子がオルシーノ・オルシーニ、(ジュリア・ファルネーゼの本来の夫)であった。ルクレツィアは数度の婚約の後、ドラマにもあるようにジョヴァンニ・スフォルツァと結婚したが、スフォルツァ家と反目したアレクサンデル6世は、ナポリ王国に自らの勢力を伸張させるため、娘のルクレツィアを、亡きナポリ王国王太子アルフォンソの庶子であるアルフォンソ・ダラゴーナと結婚させた。そしてこの義弟は実際、この後でフランスと接近するチェーザレからは敵視されたのである。

ジャン・パオロ・バリョーニ

教皇領内のウンブリア地方の中心都市、ペルージャの僭主(立場の弱い君主のような存在)。1470年に生まれ、傭兵隊長(自らの兵を率いて司令官として他の大国のために戦う)を生業としていた。本拠地のペルージャでではあるが、馬上槍試合の競技で優勝していることから、武術にも秀でていたと推定される。ドラマにもあるとおり、1498年にはフィレンツェ軍の司令官をしていた。しかし、1499年からは、ヴィテッロッツォ・ヴィテッリらとチェーザレ・ボルジア軍に傭兵隊長として参加し、イーモラ市攻略に加わっている。また、1502年に傭兵隊長たちが起こしたチェーザレに対する反乱にも加わっている。チェーザレは16歳のときにペルージャ大学で学んでおり、そのときから両者は顔見知りだったと推定される。

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第4話 栗拾いの宴

教皇の愛人ジュリアが提案した宴は、枢機卿が羽目をはずした肉欲の宴となる。フェルディナンド2世(ナポリ王)は、両家証人立ち会いのもとで、ルクレツィアとアルフォンソの「婚姻の成立」を証明するようボルジア家に迫る。

ヴェネツィアから、オスマン帝国(トルコ)から侵攻されていると陳情が来る。
アレクサンデル6世はジュリア・ファルネーゼと距離を置く代わりにジュリアの兄を枢機卿にした。
チェーザレはルイ12世(フランス王)の元へ向かう。

ジュリア・ファルネーゼ

ジュリアは1474年に一族のローマ郊外の所領カポディモンテで生まれた。父はピエル・ルイジ・ファルネーゼ、母はジョヴァンネッラ・カエターニ、有名なボニファティウス8世(ローマ教皇)の血を引いていた。この母親のおかげでファルネーゼ家はローマの貴族となった。1487年に父が亡くなるとオルシーニ家のオルシーノと結婚した。しかしジュリアは顔面がただれた隻眼の夫を嫌った。結婚式は、オルシーノの母アドリアーナ・デ・ミラの親族である枢機卿ロドリーゴ・ボルジア邸で、1489年に行われた。このときに、すでに彼女はロドリーゴ(アレクサンデル6世(ローマ教皇))の愛人だったという説がある。後1493年、ルクレツィアがペーザロの僭主ジョヴァンニ・スフォルツァと結婚した時に、ジュリアはロドリーゴとの関係を解消しようとすべく、夫のところに帰ろうとした。これ以来、兄の枢機卿アレッサンドロの昇進はとまった。

アレッサンドロ・ファルネーゼ

ドラマでジュリアが自分の望みとして、兄の枢機卿就任をあげているが、実際に、この兄、アレッサンドロ・ファルネーゼは、彼女がアレクサンデル6世の愛人をしていたおかげで1494年に枢機卿になっている。その若き枢機卿は、後に、ミケランジェロにカピトリーノの丘の上にカンピドッリオ広場を作らせ、システィーナ礼拝堂の名高い「最後の審判(ミケランジェロ)」を完成させたことで有名なルネサンス教皇、パウルス3世(ローマ教皇)となった。若い頃は、少年時のチェーザレ・ボルジアとも仲が良かったと推定されている(妹のジュリアがチェーザレの父親、後の教皇アレクサンデル6世に育てられていることから)。また、放蕩が原因で母親から訴えられて牢に入れられたり、ローマ近郊の自分の家を追い出され、フィレンツェのロレンツォ・デ・メディチのもとで生活していたこともあった。

ヴェネツィアの貿易

この時期(1490-1500年頃)にヴェネツィアの東方貿易が危機に瀕していたのは事実である。そして実際、ヴェネツィアの東方領がオスマン帝国に奪われ、その圧力のもとにあったのも事実である。けれども、実は、この時、おそらく全世界的に貿易活動は停滞していた。なぜならば、中国では、中国を越えて全ユーラシア大陸を支配下に置き、そのため貿易活発化させていたモンゴル帝国が滅び、明王朝が成立していたからである。近代に至るまでは、中華帝国は世界人口の大部分を占め、世界の富がここに集まってくるはずだった。しかし明王朝は前王朝とは異なり、鎖国に近い政策をとり、全世界が不況に陥ったはずだったからだ。実際、1490年代のヴェネツィアの国庫は空に近い状態だったことが分かっている。

第5話 残酷な劇場

チェーザレはフランス アヴィニョンの荘厳な城での滞在を満喫する。教皇は、スフォルツァ枢機卿とある陰謀を企てる。その頃ルクレツィアはナポリ王国フェルディナンド2世の殺害をもくろんでいた。

ナポリとローマ、ヴァチカンとスペインの関係を強化する政略のもと、子供と引き裂かれルクレツィアはナポリに嫁ぐ。
枢機卿を辞したヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアは婚姻無効の特免状と軍隊援助を天秤にルイ12世とその王妃ジャンヌ・ド・フランスに謁見する。
チェーザレは特免状と引き換えにヴァランス等の公爵として領土と軍事支援、聖ミカエル騎士団の騎士の称号と妻ナバーラ王フアン3世の妹シャルロット・ダルブレを得る。
フェルディナンド2世(ナポリ王)死去。

ヴァランティノワ公爵

史実では、弟ホアンの死後、チェーザレがボルジア家の惣領の立場となり、1498年に枢機卿会議の許しを得て還俗した。そして、当初からナポリ王の血筋に入ろうとしていたボルジア家は、ナポリの王女カルロッタ・ダラゴーナとの結婚を画策、当時フランス宮廷にいたカルロッタと縁を結ぶために、チェーザレはフランス王のもとに赴いたが、ナポリ(実はその後ろにいるスペイン)の強い拒否にあって花嫁を変更し、小国のナヴァッラ王の妹、フランス王の縁者であるシャルロット・ダルブレと結婚することとなった。この際に、チェーザレはフランス王から、フランス王国内のヴァランスなどの領土を与えられ、その地の公爵の地位を得た。このために彼は、ヴァランティノワ公爵となった。この教皇庁とフランス王家との同盟はナポリ王家を脅かし、ルクレツィアの夫アルフォンソやホフレの妻サンチャの立場はとても微妙なものとなった。

シャルロット・ダルブレ

フランス貴族アラン・ダルブレとフランソワーズ・シャティヨン・リモージュの間に1480年に生まれる。兄ジャン・ダルブレは小国ナヴァッラの王。彼女はフランス王室で育ち、史実では、1499年3月、チェーザレとナポリ王女カルロッタとの結婚が暗礁に乗り上げた後、チェーザレの花嫁候補となって、ナヴァッラ王国の王位継承権などの放棄を条件に結婚した。同年5月10日、フランス、ブロワ城で新婦19歳、新郎23歳の結婚が行われた。この結婚は教皇のいるボルジア家とルイ12世(フランス王)との同盟のためのものであり、チェーザレは即座にミラノ攻略に向かうルイ12世に同行した。なお、この間に二人の間に娘ルイーズが生まれた。シャルロットはルイ12世にとっては人質であり、イタリアのチェーザレのもとはもとより、兄のナヴァッラ王のもとへさえ行くことを許されなかった。

ヘクトル/ヘレネ

ヘクトルは、ギリシア神話中のトロイ戦争でのトロイ軍総大将。トロイ王プリアモスとヘカベの長子。彼は勇敢で、愛を知り、理をわきまえた名将として祖国防衛に活躍した。しかし開戦して10年目、ギリシア軍最大の英雄アキレウスとの一騎打ちに敗れて戦死。ヘレネはそのトロイ戦争の原因を作った絶世の美女。白鳥の姿で近づいたゼウススパルタ王妃レダに産ませた卵からかえったとされる。数多の求婚者の中から、ミュケナイ王アガメムノンの弟メネラオスを夫に選んでスパルタ王妃となったが、夫の留守中にトロイの王子パリスに誘惑されて駆け落ちし、トロイ戦争が起きた。なお、ローマはギリシア人に滅ぼされたトロイ人の末裔とされたため、本編中では、この二人の名はローマ滅亡、あるいは不倫による教皇庁崩壊を暗示する。

第6話 ロンギヌスの槍

フランスの軍隊を率いたチューザレは、意外な同盟仲間を得て北イタリアへと進み入る。教皇は、十字軍派遣の費用を賄うためユダヤ人から税金を徴収しようと考える。

ロンギヌスの槍

聖槍。磔刑に処せられた十字架上のイエス・キリストの死を確認するため、わき腹を刺したとされる槍のこと。ロンギヌスの槍とは、イエス殉教の際に、神の子の血に触れた槍としてある種の崇拝の対象となっている。その名は槍を突き通した兵士ロンギヌスからきている。現在、ロンギヌスの槍と言われているものは複数存在し、ヴァチカンにあるものや、ウィーンのホーフブルグ宮殿内に展示されているものがある。このヴァチカンにあるものは、アレクサンデル6世の前任者、インノケンティウス8世治世の最後の年、1492年に、オスマン帝国バヤジット2世が、弟のジェム(シーズン1でホアンに暗殺された)を擁するキリスト教ヨーロッパとことを構えることを嫌って教皇に寄贈したものである。ちなみにそれをイタリアで最初に受け取ったのは、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレであった。

ペスト

ヨーロッパ史上で最初にペストが流行したのは西暦500年代だったが、史上最も有名なのは1348年のものである。これは、東西の貿易の活性化の結果、新たな流通経路となった中国の北東部を震源とするものだったが、気候の寒冷化を受けて、食糧事情が悪化した中でのものだったため、その惨状はひどいものとなった。たとえばフィレンツェの人口は3分の1となったとされ、ヨーロッパ全体でも半減したと推定されている。これ以後、ペストは、数十年周期でヨーロッパを襲うようになったが、1348年ほどの死亡率にはならなかったとされる。また、1499年にカテリーナ・スフォルツァが、毒入りの書簡を教皇アレクサンデル6世宛に送ったという記録があるが、真偽に関しては見解が分かれている。

ユダヤ人

元来、教皇庁とユダヤ人コミュニティーに関しては、関係は良好だった。それはなぜなら、選挙の結果で新教皇が選ばれるために、教皇庁内の勢力図は簡単に塗り替えられるため、イタリアの名家同士の勢力争いとは関係を持たないユダヤ人たちが、安心感から教皇のそばに仕えていたためである。ユダヤ人コミュニティーは国際的なネットワークを持っていたため、たとえば、1492年、スペインのカトリック両王が、スペインからイスラム勢力を追い出した際に、そのローマのユダヤ人を頼って、スペインからの大量の移民があったことも知られている。元来が、キリスト教世界で受けのよくないアレクサンデル6世(ローマ教皇)であるが、その一因に、当時、寛大にも率先して、この亡命ユダヤ人を受け入れたことも挙げられるだろう。ドラマでの挿話は、そういった歴史的事実がもとになっていると思われる。

第7話 ルクレツィアの策略

ナポリの政治的存在感が薄れ始める。ルクレツィアは、家族の地位を守るため、2人のナポリ国王の後継者のうち1人と組むことを決意する。

チューザレ率いるフランス軍がミラノに入城すると、ルドヴィーコ・スフォルツァ(ミラノ公)は城を捨てて逃げた後だった。そこにはルドヴィーコに仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチの作品が多く残されていた。
フェデリーコ1世(ナポリ王)がフェルディナンド2世(ナポリ王)の後を継ぐ。

サライ(小悪魔)

サライとはレオナルド・ダ・ヴィンチの弟子、アシスタント、そしておそらくは愛人だった人物。本名はジャン・ジャーコモ・カプロッティ。なお、サライという言葉の意味は小悪魔である。彼は1480年にミラノで生まれ、10歳でダ・ヴィンチのアシスタントとなった。サライは、巻き髪の美しい少年だったとされるが、ダ・ヴィンチは、彼は嘘つきで盗み癖があると述べている。ダ・ヴィンチは、彼を自分の手元に25年以上置いたとされる。師の「洗礼者ヨハネ」を模写したサライ作の「洗礼者ヨハネ」はミラノのアンブロジアーナ図書館に所蔵されており、2013年には日本でも公開された。

ナポリの王位継承争い

新王の座をめぐる争いは、史実上は1400年代の前半に起きている。ナポリ王国がアンジュー家の女王ジョヴァンナを戴いていたとき、フランスのプロヴァンスに残った同族のアンジュー家が王位を狙ってナポリ王国に攻め込み、女王がスペインのアルフォンソ・ダラゴンを呼びよせ、王位がアラゴン家に渡ってしまったのである。そもそも、シーズン1のシャルル8世(フランス王)や、シーズン3のルイ12世(フランス王)がナポリ王国に攻め込んでくる大義名分は、失われたアンジュー家の王位継承権だった。また、その王位継承に教皇が介入してくる理由だが、ナポリ王国の名目上の宗主権は教皇にあったというものである。そしてアラゴン家とアンジュー家の争いは、1300年代に、教皇庁が、同じシチリア島の王位に対し、アンジュー家には名目上のシチリア王位、アラゴン家にはシチリア島の別名を使ったトリナクリア王位を与えたことに発する。

ジュリア、ヴァノッツァの結婚

ジュリア・ファルネーゼは、実際には隻眼のオルシーノ・オルシーニと結婚していた。しかし、実はアレクサンデル6世がまだ枢機卿だった時代に、彼の周辺に、ドラマに登場したヴィンチェンツォ・サルヴァトーレ(アメリカに渡った現代のシチリア移民のような名だ)と同じく詩人と結婚した人物がいる。それが、チェーザレやルクレツィアの母、ヴァノッツァ・カッターネイだ。彼女は、子どもたちを嫡子とするための名目上の父親をあてがわれていた。最初にチェーザレたちの名目上の父とされた最初の夫、ドメニコ・ダリニャーノ、次にアントニオ・ダ・ブレシャ、さらにジョルジョ・デッラ・クローチェ、最後にカルロ・カナーレである。この最後の人物は、人文学者として有名だったのである。なお、彼女は夫たちとの間に複数の子どもをもうけている。

舞台裏 父子の確執

父子の関係は緊迫していき敵対心をいだき始めるチェーザレは出生をふりきり父への懇願をやめた。好印象で頭脳明晰な若者は戦士へ大成長を遂げた末の姿は非常な戦略家だった。

第8話 血の涙

西暦1500年の聖年を祝う式典が執り行われ、教皇はユダヤ人に感謝の意を表す。一方、ルクレツィアは、自分が囚われの身となっていることに気づき…。

聖年(大赦の年)

西暦1300年、ヨーロッパ全土を支配することを企てていたボニファティウス8世(ローマ教皇)の治世に、教会の堕落等の理由から、その年に世界の終わりが来ると信じられていた。そのため、1299年のクリスマスの頃から自然発生的に、ローマの七大聖堂に参れば、罪の許しが得られるといううわさが流布し、自然発生的にローマ巡礼が流行し、教皇も、あとからそれを追認するに至った。それが大赦の年、ジュビレオの始まりであり、最初は100年後とに行われるとされたが、この頃はすでに25年ごとになっていた。1500年はその大赦の年の中でも節目に当たり、盛大に各種行事が行われたという。

聖骸布

十字架上で息絶えたイエス・キリストの遺骸を包んだとされている布。歴史上はヴェロニカの聖骸布など、複数が存在していたが、現在は北イタリアのトリノ市にあるものしか存在していない。男性の像が浮かび、血痕のような染みが残されている。1353年にフランスで発見され、1578年からトリノ市の聖ジョヴァンニ大聖堂に保管されている。この布が救世主の遺骸を包んだものかについて長く議論が続き、科学的な調査が何度も行われてきた。通常は、この布は1200年代のものとされるが、調査が途中で差し止められたこともあり、結論を出すまでには至っていない。聖骸布は25年に1度、一般に公開されてきたが、2000年に公開された後、02年に修復され、2010年に再び公開された。2013年には、トリノ大司教が2015年の春から夏にかけての公開を発表している。

罪状と金額

まず、厳密には、金銭によって罪が免ぜられることはない。あくまでも、罪の贖いを軽減するための証明書である。カトリックでは、犯した罪を悔いて反省し、司祭に罪を告白(告解)して赦しを得て、最後にそれに見合った償いが必要とされた。そして、十字軍時代に、十字軍に参加した者に贖宥を与えたのが始まりとされ、その際、参加できない者にも寄進により贖宥を与えたことが、金銭による贖宥に繋がったとされる。なお、罪を濯ぐ方法の一つに、例えば請願というものがあったが、聖書の「レビ記」27.1-33には、終身誓願に相当する代価が定められている。

舞台裏 船の爆発

教皇のご機嫌伺いをしているユダヤ人が港に停泊中のトルコ艦隊を闇討ちにする。爆発する船の中から数人の男が走り出るシーンのために人が乗り込める大きさの船を作った。火も船もCGではないため一度のテイクで撮影した。

第9話 父と子

チェーザレの忠臣のミケロットがこつ然と姿を消してしまう。チェーザレは妹ルクレツィアをナポリから助け出すが、夫アルフォンソは、再開を喜ぶ2人に疑惑の目を向け始める。

第10話 君主

チェーザレ率いる教皇軍は、スフォルツァ軍を倒すためにフォルリ城を砲撃。しかし無用な接近戦は回避する。

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