登場人物
登場人物
漢
劉邦(りゅうほう)
劉季(りゅうき)。江蘇省沛(はい)出身、中国史上初の平民出身の皇帝。前漢を建国した皇帝であり、廟号は太祖、諡号は高皇帝である。歴史的には太祖高皇帝、太祖、高祖もしくは高帝と呼ばれている。秦の末期に泗水(しすい)の亭長(ていちょう)の任にあたっていたが、陳勝・呉広に続き、挙兵して沛公と称した。項羽と共に秦と戦い、秦が滅亡すると漢王となった。のちに楚漢戦争で項羽を打ち破り天下を統一した。
呂雉(りょち)
字は娥姁。通称呂后、高后、呂太后などと呼ばれる。高祖劉邦(りゅうほう)の皇后である。堅忍不抜(けんにんふばつ)の女性。劉邦が蜂起する前の呂雉は賢妻であったが、挙兵により否応なしに生活の変化に巻き込まれていき、劉邦が漢王朝を建国したのをもって皇后となる。高祖の死去後、皇太后と崇められ、中国史上記載がある、初めての皇后、皇太后、太皇太后となる。劉楽(りゅうらく)、劉盈(りゅうえい)の母。
蕭何(しょうか)
漢の三傑。若い頃は沛(はい)県で役人をしていた。秦末の劉邦の挙兵を補佐する。咸陽を占領したあと、秦の丞相を受け入れ、秦の律令・書籍を手に入れ、全国の山河の要害・郡県戸籍を掌握した。これらはのちの政策策定と楚漢戦争を勝利に導く上で重要な役割をした。楚漢戦争の際、蕭何は関中に居残り漢軍の後詰めとして、絶えず兵士と糧食を輸送する作戦を続け、劉邦が項羽に勝利して漢を建国する上で重要な役割を果たした。
張良(ちょうりょう)
漢の三傑。字は子房(しぼう)。高祖の参謀で漢王朝建国の元勲の一人。先祖は5代に渡って韓の宰相を務めた。秦に韓を滅ぼされたあと始皇帝暗殺をはかるが失敗し逃亡した。秦末の動乱の中で、劉邦の軍に加わり重要な「頭脳」となる。韓王・韓成を擁立するが、劉邦に近い張良は項羽に不快に思われ命を狙われる。楚漢戦争でもさまざまな策を弄し、劉邦の天下統一への基礎を打ち立てた。
韓信(かんしん)
漢の三傑。紀元前231-紀元前196年。准陰(江蘇省淮安市)の人。前漢建国の功臣であり、中国歴史上傑出した軍事家。その戦功のため斉王、楚王の位についたが、後に准陰候に落とされる。漢王朝天下統一に輝かしい戦功を立てたが、後に高祖(劉邦)に疑われて最後は謀叛罪で処刑される。韓信は中国軍事思想における「謀戦」派の代表的人物であり、「国士無双(国士無双=国中で比べる者がないほど優秀な人物のこと。)」と呼ばれている。劉邦は次のように韓信を評価している。「戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾れ韓信に如かず(戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾れ韓信に如かず=戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず討ち取るという点では、私は韓信に及ばない。)」
曹参(そう しん)
秦の時代には沛県の刑務所の属吏だった。蕭何はその時の上司にあたり、共に顔がきく役人だった。劉邦が挙兵した時、中涓(侍従)として従軍した。漢王となった劉邦により将軍に引き立てられ、劉邦の下で楚軍を相手に転戦し、仮左丞相に任命された。以後、劉邦から離れて、韓信の軍に従軍して魏・趙・斉を破り、劉邦と韓信の軍は、項羽を破りほぼ天下を平らげた。曹参は服従しない斉にとどまって、楚の亜将周蘭を生け捕るなどの手柄を立てて、韓信の平定に従った。
盧綰(ろわん)
劉邦の幼馴染で弟分。劉邦が罪を犯して逃亡生活を送った時でさえ、行動を共にし続けた。劉邦からの信頼は厚く、咸陽への偵察など、幾度も重要な役目を負う。劉邦が50万の兵を率いながら項羽の3万の軍に敗れた時は、涙ながらに劉邦を励ました。
樊噲(はんかい)
劉邦の弟分。元は犬の屠殺業者で力自慢。ならず者だった劉邦が労役者の護送に赴いた時、盧綰らと共に同行する。劉邦は呂雉の妹・呂須を盧綰に嫁がせようとしたが、樊噲が呂須を寝取ってしまった。無謀にも項梁救出に向かおうとした劉邦を気絶させて止めたこともある。
夏侯嬰(かこうえい)
沛県の出身。秦・前漢時代の中国の武将。劉邦の部将。
周勃(しゅうぼつ)
劉邦と同じ故郷、沛で機織業をしており、葬儀屋を副業としていた。劉邦が漢王になると、周勃は武威侯となる。劉邦が死去の際「漢王朝を長らく安んずるものは必ずしや周勃であろう」と、皇后の呂雉に言い残したとされる。
雍歯(ようし)
劉邦(りゅうほう)と水源を争う喧嘩を通して牢に入り、労役のため劉邦を恨みながらも同行する。カッとなって舎弟を殺したり、女性に訴えられたりと、次々と問題を起こす。沛県の留守を任されていた雍歯は、魏と手を結んで劉邦を裏切り、兵士の家族を人質にとって沛県の城を占拠する。
戚夫人(せきふじん)
歴史上、有名な戚夫人である。男心を深く理解できる絶世の美女であり、策略家の女性でもある。天性の美貌と鮮やかな計略で、劉邦の手をしっかりと手放さなかった。たとえ劉邦の心が呂雉に傾いても、劉邦が自分のもとから離れないよう策を講じた。戚夫人は呂雉の善良な性格をだんだんと残忍なものに変えていってしまい、最後に自身が性格が変わってしまった呂雉の餌食になってしまう。劉如意(りゅうにょい)の母。
酈食其(れきいき)
中国秦から楚漢戦争期の儒者、説客。陳留高陽の人。通称は酈生(酈先生)。子は酈疥、孫は酈遂。弟は酈商、甥は酈寄。劉邦が陳留を攻撃した際、酈食其は劉邦を気に入り、陳留の率いる秦軍の投降を説いて成功させ、広野君に封じられた。斉を味方にするため入国して田広らを説得する。しかし韓信の裏切りにより激怒した田広に煮殺された。
蒯通(かいつう)
韓信の軍師。韓信は計略に長けるが処世術に疎いので私が力を貸しましょうと言ってのけ、韓信の軍師となる。
後漢末に劉表や曹操に仕えた政治家・武将の蒯越・蒯良は蒯通の子孫であると伝わる。
彭越(ほうえつ)
元盗賊。秦滅亡後、戦功があったにも関わらず領土分配をされなかったため、怒った彭越は同じく不満を持っていた旧斉の王族の田栄たちと結び、彭越は田栄より将軍の印を受けて、梁(旧魏の地。開封周辺。)にて兵を起こした。劉邦が東へ出てきて、旧魏の王族の魏豹を連れてきて魏王の位に就け、彭越をその宰相とした。劉邦は項羽の軍に敗れて逃亡したので、彭越も根拠地を離れて逃亡し、ゲリラ戦術に入った。
灌嬰(かんえい)
項梁が章邯に敗れ殺害された後、劉邦が碭に戻った頃にこれに従った。秦との戦いで功績を上げ多くの多くの功を立てた。後に韓信に従い、斉征服と龍且迎撃に活躍した。龍且を斬ったのは彼の配下の兵で、自ら亜将周蘭を苦・譙で生け捕りにした。その後は楚領を攻め、下邳や彭城を下している。項羽(項籍)が垓下の戦いに敗れ逃走すると、灌嬰が劉邦の命を受けて追撃した。項羽の死体を持ち帰った五人は灌嬰の配下である。またその後も呉郡など江南、淮北を平定する。その後も燕王臧荼討伐に従軍し、楚王韓信を捕らえる際も同行した。
陳平(ちんぺい)
当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕る。劉邦から黄金四万斤をあずかり、離間の計で、戦わずして楚最大の知謀の才・范増(はんぞう)を排除した。
随何(ずいか)
儒者。劉邦に仕える謁者(客接待係)。劉邦が彭城の戦いでの大敗後、項羽の片腕である九江王英布を寝返らせる説得に成功する。
紀信(きしん)
紀元前204年の夏、項羽率いる十万の軍勢が滎陽(けいよう)城の漢軍を包囲し、食糧が尽き落城寸前に陥った時に、陳平(ちんぺい)の金蝉脱殻の計により、紀信が劉邦に化けて楚に降服するふりをして、その隙に劉邦が逃亡した。囮となった紀信は項羽によって火刑に処された。
周苛(しゅうか)
劉邦が滎陽(けいよう)で項羽に包囲されると、劉邦は紀信を囮として脱出に成功。周苛は魏豹(ぎほう)、樅公、韓王信とともに滎陽を守備した。項羽に内通しようとした魏豹を殺した。
審食其(しんいき)
劉邦が沛公となり自立すると、劉邦の父・劉太公を世話する者となった。呂雉(りょち)と劉太公らと共に項羽の捕虜となり、呂雉らの世話をした。
秦
都:咸陽
始皇帝(しこうてい)
贏政(えいせい)。紀元前221年に、中国の歴史上初めて統一を成し遂げた男。始皇帝を名乗り、万里の長城の建築や、焚書坑儒と呼ばれる思想弾圧など、大がかりな計画を次々と進めた。自らの権力を広く知らしめるために、各地を巡行していたが、その最中の紀元前210年に突然没する。
扶蘇(ふそ)
秦の始皇帝の長男。温厚な人格と聡明で知られ、父や多くの重臣達から将来を嘱望されていた。父の政治(焚書坑儒)に諫言したため怒りを買い、北方の匈奴に対する国境警備・蒙恬(もうてん)の監督を命じられる。始皇帝は後継に扶蘇をと考えていたと思われるが、巡幸中に崩御した。始皇帝の喪は混乱を避けるべく秘密にされたが、巡幸に随行していた弟・胡亥、丞相・李斯、宦官・趙高の謀略により、後継は胡亥とし、扶蘇には自害を勧める偽の詔が渡された。蒙恬は偽詔であることを看破し、その旨を扶蘇に進言したが、「疑うこと自体義に反する」と述べてそれを受け入れず、偽命に従って自決した。
胡亥(こがい)
始皇帝の末子。始皇帝亡き後、長子の扶蘇が謀殺されたことで、宦官の趙高、宰相の李斯によって二世皇帝に祭り上げられる。皇帝の権力に強く憧れていた胡亥は女遊びに夢中になり、政務をすべて趙高に一任する。やがて、趙高に実権を握られ、傀儡となってしまう。
趙高(ちょうこう)
始皇帝に仕えていた宦官。扶蘇(ふそ)を後継者にするという始皇帝の遺言を反故にし、胡亥を皇帝の座に就ける。皇帝への進言はすべて自分を通すようにとの命令を胡亥から出させ、権力を我が物にしていく。軟禁状態となった胡亥の反撃に遭うと、これを返り討ちにする。
李斯(りし)
秦の丞相。始皇帝の死後、趙高に唆されて遺詔改竄に協力する。秦に対する反乱が起こると胡亥を諌めようとしたが、趙高の罠により捕らえられて一族もろとも死刑とされた。
章邯(しょうかん)
秦の大将軍。項梁、項羽らと幾度も激戦を繰り広げる。趙高の働きかけで、晨曦との結婚が進められ、複雑な思いを抱えるが、やがて晨曦の愛情に応えるようになる。章邯が兵士からの信望を集めていることを知った趙高の策略によって、戦地を転々とさせられる。
晨曦(しんぎ)
扶蘇(ふそ)の娘で、子嬰の姉。若い頃は、気が強く、生意気な娘だったが、将軍・章邯(しょうかん)を愛するようになってから、一途でまっすぐな大人の女性へと成長していく。趙高に陥れられそうな章邯を守るために、趙高暗殺を企てるなど、知性と行動力を兼ね備えている。
子嬰(しえい)
始皇帝の長子であった扶蘇(ふそ)の息子。かつて多くの皇族が殺された時、心の病を抱えたふりをして生きながらえていた。胡亥(こがい)に後を託されるが、趙高によって秦は王国に戻され、子嬰も皇帝ではなく秦王と称すことになる。趙高の傀儡(かいらい)となることに危機感を抱き、反撃に出る。
司馬欣(しば きん)
秦の将軍で官職は長史。三秦の一人。
淳于越(じゅんうえつ)
斉人。博士。郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。
叔孫通(しゅくそんとう)
秦末から前漢初めにかけての儒者。薛(現山東省滕州市)の人。二世皇帝へ甘言し首席博士となるも、秦の弱体を感じて薛に帰り、項梁が薛へ来ると仕えた。項梁が敗れると懐王に従い、項羽が懐王を義帝として長沙に遷すと、叔孫通は項羽に仕えた。漢王劉邦が諸侯を従えて楚の都彭城を落とすと、叔孫通は劉邦に降伏した。劉邦は儒者を憎んでいたので、叔孫通は儒者の服を止めて楚の服を着たので、劉邦は喜んだ。
董翳(とうえい)
秦の二世皇帝の時、反乱を鎮圧するために派遣された章邯の元では都尉。章邯が項羽に破れた後、董翳は章邯に項羽に投降するよう勧め、章邯は項羽に投降し、項羽は関中に攻め入り秦を滅ぼした。その後、紀元前206年に項羽は天下に諸侯を封建し、関中を三分して章邯を雍王、司馬欣を塞王、董翳を翟王とした。これは三秦と呼ばれ、翟王董翳は上郡を領土とし高奴に都を置いた。しかしその年、漢王の劉邦は三秦を攻め、雍王の土地を平定して章邯を包囲した(後、章邯は自害)。塞王司馬欣、翟王董翳は漢王劉邦に降伏した。劉邦は翟国を廃して上郡に戻した。翌年、劉邦は項羽を攻め、項羽の都の彭城を占領したが、戻ってきた項羽の反撃を受けて大敗した。司馬欣、董翳も劉邦に従って彭城にいたが、劉邦が敗れると項羽に降伏した。
閻楽(えんらく)
趙高の娘婿。紀元前207年、望夷宮の変(ぼういきゅうのへん)で丞相であった趙高と共謀して二世皇帝・胡亥(こがい)を望夷宮において殺害した。
王離(おうり)
秦の将軍。項羽の祖父・項燕(こうえん)を死に追い込んだ王翦(おうせん)の孫。章邯の命で趙の邯鄲(かんたん)を攻めるが、章邯が項羽に敗れて撤退すると渉間は自殺し、蘇角は戦死し、自身は捕虜になった。
楚
項羽(こうう)
名は籍(せき)。字が羽。秦末に楚の懐王(かいおう)に「魯公」に封じられる。鉅鹿(きょろく)の戦いで楚軍を統率し秦軍を破った。秦滅亡後は自ら西楚の覇王と名乗り、黄河及び長江下流の梁・楚の九郡を統治した。のちに楚漢戦争の垓下の戦いで劉邦に敗れ、東城まで逃亡した後、自ら命を絶った。性格は無鉄砲で、義理堅く、天下を愛するにも増して美女を愛した。項羽は中国数千年の歴史の中でも最も勇猛果敢で名高い武将であり、「覇王」と言えば項羽を指す。
項梁(こうりょう)
楚の名門である項家で、項燕(こうえん)の子として生まれるが、楚の滅亡と共に秦打倒を目指して各地を転々とする。甥の項羽に項家に伝わる剣術を伝授した人物でもある。項梁は楚を再建するにあたって、懐王・心を擁立。自身は「武信君」と名乗って楚軍を率いた。
項伯(こうはく)
項燕(こうえん)の子で項羽の叔父。項梁、項羽と共に、秦打倒のために決起する。劉邦の参謀・張良(ちょうりょう)とは旧友であり、項羽が劉邦を倒そうとすると、張良に逃亡を勧めるが、張良にこれを拒否される。項伯はやむなく劉邦と会談。その後も劉邦のことを気にかけるようになる。
項燕(こうえん)
戦国時代末期の楚の大将軍。西楚の覇王項羽(こうう)とそのいとこ項荘の祖父にして、項嬰、項梁(こうりょう)、項伯(こうはく)、項仲の父。秦の武将李信(りしん)を大破したが、まもなく後の秦が楚を滅ぼした戦争の中、兵は敗れ、戦死または自決した。
項荘(こうそう)
武将。項羽の従弟。鴻門の会の際に、亜父范増から剣舞をして劉邦に近づき討つように命じられるが、叔父項伯の妨害などにより失敗した。
虞子期(ぐしき)
楚の将軍。虞姫の兄と知らず友となり、共に剣術を学ぶ。
虞姫(ぐき)
項羽(こうう)の寵姫(ちょうき)。項羽のことをよく理解している。項羽の出征には常に付き従い、最後までそばを離れなかった。項羽が垓下(がいか)で囲まれたときに、項羽は天命すでに尽きたと思い「力は山を抜き、気は世を蓋う。時、利あらず。騅ゆかず。騅ゆかざるをいかにすべき。虞や虞や汝をいかにせん」と詩を吟じ、これに合わせて虞姫は舞った。この詩は垓下の歌と呼ばれており、歌い終わると虞姫は自殺した。
季布(きふ)
中国の秦末から前漢初期にかけての武将。はじめ楚の項羽配下だったが、のちに劉邦に仕えた。項羽と同郷の生まれで、若い時から弱者を助けていたことから任侠としても名高かった。その信頼も厚く、楚漢戦争の際には劉邦を幾度も窮地に立たせた。
鍾離昧(しょうりばつ)
秦末、楚の項梁・項羽の挙兵に参加し、秦滅亡後の楚漢戦争においても項羽の部将として活躍した。しかし、劉邦陣営に鞍替えした陳平の計略により、鍾離眜は項羽に疎んじられるようになった。
龍且(りゅうしょ)
楚の武将。項羽の部下。彭城の戦いの後、呂雉らを人質に連れ去る。
英布(えいふ)
秦で罪を犯し顔に刺青を入れられた囚人だったが、章邯が反乱軍討伐の際赦され、戦で活躍したが、秦に将来が無いことを悟り脱走し、項梁に仕えて当陽君と名乗ることを許され、項梁の戦死後は項羽に仕えた。秦滅亡後に項羽の配下では唯一九江王に封建される。彭城の戦い後、劉邦が派遣した説客・随何(ずいか)の説得に応じて、劉邦の配下として参戦する。
范増(はんぞう)
項羽の重要な軍師である。項羽に亜父(父についで大切な人)と呼ばれ信頼される。紀元前206年、項羽が関中に攻め入った際に、項羽に劉邦の勢力を殲滅(せんめつ)するように勧めるが受け入れられなかった。鴻門の宴で項羽に何度も劉邦を殺すように伝え、項荘に剣の舞で劉邦を殺させようとするが失敗に終わる。楚漢戦争で劉邦の家臣・陳平に項羽との仲に亀裂を入れられ、范増は官を辞し郷里に戻る途中で頓死した。
宋義(そうぎ)
代々楚の令尹(れいいん)を勤めた家系で、秦に反抗した楚に属し、項梁の後の楚の総大将となり項羽に殺害された。宋襄の父、宋昌の祖父。
義帝(ぎてい)
姓は羋(び)。名は心(しん)。楚の滅亡後は地方に逃れて、羊飼いとして暮らしていたが、秦末の動乱期に楚の名家の末裔・項梁に迎えられ、楚王に即位し、祖父(一説では高祖父)の名を受け継ぎ、懐王を名乗るが、のちに項羽に義帝とされる。
若姜(じゃくきょう)
咸陽で虞姫に助けられ義理の姉妹となる。秦人であることを隠して項羽の政略で英布(えいふ)の妻となるが、項羽の命を狙う。
曹咎(そうきゅう)
楚に仕えた重臣。楚漢戦争期には諸侯にまでなり重きを成したが、項羽から成皋の守備を任され、司馬欣(しばきん)と共に防衛し、漢の劉邦軍に大敗して自害した。
魏
魏豹(ぎほう)
魏王。陳勝・呉広の乱に乗じて挙兵し、周芾らに擁立された魏王・魏咎に仕えた。紀元前208年、秦の章邯(しょうかん)の侵攻によって魏咎が焼身自殺すると、魏豹は楚の項梁を頼って逃亡した。そして、懐王より数千の兵を借り、魏の20余城を攻め落とし、章邯が項羽に降伏すると自ら魏王と称した。妻の薄姫に操られる。韓信(かんしん)により魏は滅亡し、庶民となるが、項羽に内通しようとしたため周苛に殺された。
薄姫(はくき)
魏豹(ぎほう)の寵妃(ちょうひ)だったが、魏滅亡により劉邦の側室となる。
趙
趙歇(ちょうけつ)
趙王。陳勝・呉広の乱の後、趙を平定し趙王となった武臣が李良の謀反により殺害されたため、張耳と陳余によってかつての趙の公子であった趙歇が趙王に擁立した。
張耳(ちょうじ)
趙の武将。陳余と反目して趙を追われ、漢の武将となる。
陳余(ちんよ)
趙の武将。張耳を追って趙の政権を握るが、韓信に敗れて戦死。
李左車(りさしゃ)
趙の広武君。趙の名将李牧の孫。井陘の戦いで李左車は宰相の陳余に、狭い地形を利用して本隊で守りつつ別働隊で韓信を襲うことを献策したが陳余は却下し、趙の30万と号する大軍は漢の韓信の3万の兵に大敗し趙は滅亡する。韓信は李左車を師と仰いで燕と斉を破る方法を尋ね、「敗軍の将、兵を語らず」と応えた。
韓
韓成(かんせい)
韓王。戦国時代末期に韓王の公子として生まれ、横陽君(おうようくん)に封じられたが、韓滅亡後、その地位を失って庶民となる。亡韓の遺臣であった張良(ちょうりょう)が項梁に進言し、野に下っていた成を韓王に擁立した。しかし成を擁立した張良が劉邦に接近していることを、秦を滅ぼした項羽に不快に思われ、また劉邦を警戒した范増も韓王を監禁すべきであると進言したため、成は項羽が彭城に凱旋して、当所で監禁され韓に戻ることはなかった。紀元前206年末あたり、僻地の漢中王に封じられた劉邦が項羽を討つべく韓信(かんしん)を大将軍として東進すると、成は項羽の不興を買い、また范増が「禍を断つために成を誅殺すべきです」と項羽に進言したため、成は彭城で処刑され晒しものになった。
項羽は成に代わりに秦の呉県県令を勤めたことがある鄭昌という者を韓王に封じた。この悲報を聞いた張良は、官職を辞して、間道を通って逃亡して、すでに東進した劉邦と再会して、そのまま参謀として仕えた。劉邦の許可を得た張良は、亡き主君の成の遺体を引き取り、旧韓の地で葬儀を主宰して手厚く葬った。まもなく、張良は成の1世代下の族子(おい)に当たる信を擁立した。
斉
紀元前207年、斉は斉王田都・済北王田安・膠東王田市に分割される。項羽は、田芾を膠東王、田都を斉王、田安を斉北王にした。
田芾(でんふつ)
膠東王。田儋の子。田栄により斉王になるが、項羽を恐れて封地の膠東に逃げたため、宰相の田栄に殺される。
田都
斉王。斉王・建の弟。項羽の論功行賞で分割された斉王になるが、田栄により楚に追放される。
田安
斉北王。田栄に殺される。
田栄(でんえい)
宰相。田芾を殺害して自立して自ら斉王となるが項羽に殺される。
田広(でんこう)
斉王。田栄の子、叔父は田横、従父は田儋、族兄は田芾。田栄亡きあと、残兵を集めて項羽に抵抗し、劉邦が東進した事もあり項羽が斉から引き揚げると、田横に擁立されて斉王となる。
田横(でんおう)
斉王・田栄(でんえい)、田広(でんこう)時代の宰相。田栄の弟。漢の説客・酈食其(れきいき)の同盟を受け入れるが漢の韓信(かんしん)に侵攻され、酈食其を煮殺する。斉王・田広(でんこう)が漢に捕らえられると自ら斉王となる。
その他
倉海君(そうかいくん)
斉人。120斤(約30kg)の鉄錐を操る。張良に怪力を買われ、共に始皇帝の暗殺を企てるが失敗する。
登場人物画像出典: ©中国国際電視総公司