ポンペイ映画
POMPEII

ポンペイ映画 あらすじと解説

映画


ポンペイ映画 あらすじと解説

西暦79年、ローマ帝国が誇る美しき海辺の都市、ポンペイはヴェスヴィオ火山の大噴火で一瞬にしてすべてが灰となった。そこにはまだ明かされていない、秘められた愛の物語があった。

ポンペイ映画 あらすじと解説

ストーリー

火砕サージに飲み込まれた街は一瞬にしてすべてが炭化し、そして灰に埋もれ10数世紀の眠りについたー。
壮大なスケールで有史以来最大の大自然の猛威と、それに翻弄されながらも真実の愛に生命を賭けた若き男女の姿を描き出した。あなたは人類史上最大の悲劇を目撃する。
監督は「バイオハザード」、「三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船」など、最先端VFXを巧みに操り、常に新しい映像体験で世界を驚かせてきたポール・W・S・アンダーソン。

歴史上最も壮絶な悲劇が幕を開ける。

ローマ人に一族を虐殺されたケルト人騎馬族の生き残り、マイロは、奴隷となり復讐心を糧に無敵の剣闘士(グラディエーター)へと成長していた。ある日、マイロはポンペイの有力者の娘、カッシアの馬を助け、その瞬間二人は身分の差を越えて激しい恋に落ちる。
8月24日、ヴェスヴィオ火山がまさに噴火しようとしていた。果たしてマイロは降り注ぐ火山岩をくぐり抜け、熱雲が街を覆い尽くす前に、自由を手にし、愛する人を救い出すことができるのかー。

ポンペイについて

79年8月24日(ローマ帝国フラウィウス朝第2代皇帝ティトゥスの治世)の正午過ぎ、ヴェスヴィオ山は大噴火した。
火口からの噴煙は上空30kmにまで及び、莫大な火山灰と火山弾がポンペイに降り注ぎ、数時間の内に町は火山灰に埋め尽くされた。火山雲によって太陽光は完全に遮られ、辺りが暗闇に包まれる中、溶岩と火砕流が押し寄せ、またナポリ湾で発生した津波によって数千人といわれる住民たちは一瞬の内に命を奪われた。広島原爆の10万倍ともいわれる噴火エネルギーによって、山頂は吹き飛ばされ、600メートル以上が削り取られた。海岸線も灰で埋まり、港町だたポンペイは、その位置を内陸部に変えられてしまった。
ポンペイの所在は、1700年もの間、誰にも知られなかったが、1748年にナポリ王のブルボン家が発掘を始め、住宅や公共の建物が発見された。1800年代初頭には、当時の道を歩きながら保存された建物を研究することができた。考古学者たちは、火山灰の堆積の中から発見された遺体によってできた空洞から犠牲者たちの石膏像を作り始め、伝説の都市は、散歩できるだけでなく、当時の人々の生活の様子を垣間見ることができるようになった。1997年、世界遺産に登録された。

当時のポンペイは海に面した港町で、ローマの文化が多く流入する中で発展し、港は地中海貿易の拠点として栄えていた。

ポンペイ映画
再現されたポンペイの港 (C)2013 Constantin Film International GmbH and Impact Pictures (POMPEII) Inc.
ポンペイ映画
再現されたポンペイの港 (C)2013 Constantin Film International GmbH and Impact Pictures (POMPEII) Inc.

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ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域

ポンペイの都市遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域(Archaeological Areas of Pompei, Herculaneum and Torre Annunziata)」として世界遺産に登録されている。

ブリタニア ロンディニウム

ケルト人の騎馬民族だった主人公マイロの故郷ブリタニア ロンディニウムは、現在のロンドンを指す。
43年、ローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝第4代皇帝クラウディウスの遠征で南部を征服され、ローマの属州ブリタンニアとなった。その後ローマ帝国は抵抗する部族を平定しながら着実に領土を広げていった。当作では、その時に主人公の部族が虐殺されたのだと思われる。

史実:小プリニウスの手紙

79年のヴェスヴィオ火山噴火に関して、小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙が唯一の信頼できる記録になる。
噴火から12時間後に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。降下火山灰はその後も続いた。
ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだ、軍人・博物学者の大プリニウスの甥の小プリニウスによる手紙だ。

大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、松の木のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだ(火砕流)。
プリニウスは爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れてさらに灰がどんどん積もり、村から逃げなければならなかったが、海の水がみるみる引いていった後に「津波」がおきた。
ただし、当時のヨーロッパ人は津波 (Tsunami) という言葉を持っていなかったので、プリニウスの表現は違っている。プリニウスの記述には、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかったと続き、大プリニウスはこの現象を調査するために船で再び陸に向かったが、窒息して死んだ。

噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに使者を出すが、市は壊滅したあとだった。市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げたが、これら一連の災害により、地震の前には2万人程度いたポンペイ市民の内、何らかの理由で街に留まった者の中から逃げ遅れた者約2千人が犠牲になった。

参考 ヴェスヴィオ – Wikiwand

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