空海(映画)登場人物とあらすじ
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空海(映画)登場人物とあらすじ

映画


空海(映画)登場人物とあらすじ
文部省選定映画。弘法大師空海入定1150年を記念して全真言宗青年連盟映画製作本部が東映と提携して製作した。
奈良時代の後半には仏教が政治に深く介入して、過度な仏教中心政策がとられる弊害もあったことから、桓武天皇は、遷都に伴って南部の大寺院を長岡京・平安京に移転することを認めず、最澄や空海らによってもたらされた、従来の国家仏教とは異なる新しい仏教を志向する仏教界の動きを支持した。

空海(映画)登場人物とあらすじ

時代背景

奈良時代後期、孝謙上皇の病を治したことから出世した僧・弓削道鏡は、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となると太政大臣禅師に任ぜられた。翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。僧侶でありながら政務に介入する道鏡に対する反感もあり、藤原氏らの不満が高まるなか、宇佐八幡宮神託事件(宇佐八幡宮より称徳天皇に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件)が起こる。道鏡は失脚して藤原百川ふじはらのももかわが台頭する。

桓武天皇

桓武天皇かんむてんのうは、日本の第50代天皇(在位:天応元(781) – 延暦25(806))。
奈良時代後期の政治的変動の中で、称徳天皇が死去して専権をふるった道鏡が追放されたのち、式家の藤原百川らの策謀によって、それまでの天武天皇系の皇統にかわって天智天皇系の白壁王(施基皇子しきのみこの子)が即位し、光仁天皇こうにんてんのうとなった。
はじめ光仁天皇の皇后には、天武天皇系の血を継ぐ聖武天皇県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじとの間に生まれた井上内親王とその子他戸親王おさべしんのうが立ったが、その2人も排除されて、やがて光仁天皇と渡来系氏族出身の高野新笠たかののにいがさとの間に生まれた山部親王が即位し、桓武天皇かんむてんのうとなる。山部親王擁立の背景にも、藤原百川の力があった。

桓武天皇は、光仁天皇がとった行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政治再建政策を受け継ぐとともに、新しい王朝の基盤を固め、それまでの仏教政治の弊害を断つ意味も込めて、784(延暦3)年に大和の平城京から山背国乙訓郡長岡の長岡京(京都府日向市など)に遷都した。しかし、新しい皇族の桓武天皇の基盤ははじめ確固としておらず、遷都に反対する勢力もあって、桓武天皇の腹心で長岡京の造営を主導していた藤原種継ふじわらのたねつぐ(藤原百川の甥)が暗殺される事件がおこった。この事件をめぐって皇太子の早良親王さわらしんのうや大伴氏・佐伯氏の人々が退けられ、幽閉された早良親王は自ら食を絶って憤死した。貴族層内の対立が表面化する一方、桓武天皇の母や皇后が相次いで死去した。こうした不幸が早良親王の怨霊によるものとされる中で、なかなか完成しない長岡京からの再遷都がはかられ、794(延暦13)年、ついに山背国葛野郡宇太の地(京都市)に新都を造営した。
新都は期待を込めて平安京と名付けられ、「山背国」も「山城国」と改められた。以後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまで、国政の中心が平安京にあった約400年間を平安時代と呼んでいる。
平安京は、東西約4.5km、南北約5.2kmの平城京にほぼ近い規模で、その条坊の痕跡は今の京都の街並み・道路に姿をとどめている。
桓武天皇:丹波哲郎

天皇家と藤原家の関係図

空海(映画)登場人物とあらすじ
天皇家と藤原家の関係(平安時代前期)

登場人物

空海

空海くうかい 佐伯真魚さえきまお (宝亀5(774)〜承和2(835))
平安時代初期の僧。真言宗の開祖。諡号:弘法大師こうぼうだいし
804年入唐。長安で恵果けいかから密教を学び、806年帰国。真言宗を開く。嵯峨天皇の保護のもと、819年高野山に金剛峰寺こんごうぶじを建立。823年に京都教王護国寺東寺とうじ)を賜る。
空海:北大路欣也

最澄

最澄さいちょう (神護景曇元(767)〜弘仁13(822))
平安時代初期の僧。天台宗の開祖。諡号:伝教大師。
785年比叡山に草堂を造営(のちの延暦寺)。804年入唐。805年帰国し翌年天台宗を開く。『山家学生式』を定め大乗戒壇設立を上奏、没後7日目に勅許(822)。
最澄:加藤剛

藤原薬子

藤原薬子ふじわらのくすこ (生年不詳 – 大同5(810))
平安時代初期の女官。式家の藤原種継の娘。中納言藤原縄主の妻で三男二女の母。長女が桓武天皇の皇太子安殿親王の宮女となり、東宮宣旨(高級女官)として仕えるようになると、こんどは自分が安殿親王と不倫の仲となった。薬子は藤原葛野麻呂とも通じていたとされる。桓武天皇は怒り、薬子を東宮から追放する。
薬子:小川真由美

佐伯田公

佐伯田公さえきのたぎみは、空海の父。讃岐国多度郡の豪族であったが、子の真魚(のち空海)を中央官人にするため、妻の実家である阿刀氏の一族であった阿刀大足の尽力によって、大学寮明経科に入学させる。しかし、真魚は仏門の世界に入ることとなり、田公は憤慨したという。その弁明として真魚が書いたのが、『聾瞽指帰』である。佐伯氏(佐伯直)の一族からは、宗教家が多く輩出され、真言宗の発展を支えた。
佐伯田公:西村晃

橘逸勢

橘逸勢たちばなのはやなり
書家・貴族。橘諸兄の子である橘奈良麻呂の孫。延暦23年(804年)に最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。中国語が苦手で、語学の壁のために唐の学校で自由に勉強ができないと嘆いている。おかげで語学の負担の少ない琴と書を学ぶことになり、大同元年(806年)の帰国後はそれらの第一人者となった。
橘逸勢:石橋蓮司

藤原葛野磨

藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろ (天平勝宝7(755) – 弘仁9(818))
藤原北家、大納言・藤原小黒麻呂の長男。妹・上子が桓武天皇の後宮に入ったために重んじられる。延暦20(801)年遣唐大使に任命される。官位は正三位・中納言。嵯峨天皇の元において、藤原冬嗣・秋篠安人らと『弘仁格式』の編纂にも関わっている。
藤原葛野磨:成田三樹夫

石川道益

石川道益いしかわのみちます (天平宝字7(763) – 延暦24(805年)以前)
従三位・石川石足の孫。従五位上・石川人成の子。延暦20年(801年)遣唐副使に任ぜられる。
石川道益:大場順

菅原清公

菅原清公すがわらのきよきみ
延暦23年(804年)空海・最澄らとともに唐に渡り、遣唐大使・藤原葛野麻呂とともに皇帝・徳宗に謁見し、その引き立てを得た。延暦24年(805年)帰国して従五位下・大学助に叙任される。弘仁9年(818年)には詔により、朝廷における儀式や衣服が唐風に改められ、五位以上の位記が中国風に改められ、諸宮殿・院堂門閣に新たな扁額が製作されたが、全てに清公が関与したという。孫の菅原道真が天神として祀られたことから、子の是善とともに天満宮に祀られている。
菅原清公:伊東達広

高階遠成

高階遠成たかしなのとおなり (天平宝字元(757) – 弘仁9(818))
延暦24年(805年)第18次遣唐使の大使・藤原葛野麻呂らの帰国直後に、遣唐使判官として唐に渡る。元和元(806)年10月に遣唐留学生の橘逸勢や留学僧の空海らを伴って帰国。
高階遠成:大林丈史

藤原縄主

藤原縄主ふじわらのただぬし (天平宝字4(760) – 弘仁8(817年))
藤原式家、参議・藤原蔵下麻呂の長男。藤原薬子の夫。大同元年(806年)平城天皇が即位すると従三位・大宰帥に叙任され大宰府に赴任する。
藤原縄主:滝田裕介

藤原式子

藤原縄主と藤原薬子の子。平城天皇の東宮妃。
式子:菱谷広子

藤原仲成

藤原仲成ふじわらのなかなり)。藤原式家、中納言・藤原種継の長男。藤原薬子の異母兄。
平城朝では妹の尚侍薬子が天皇の寵愛を受けたこともあり、重用され権勢を誇ったが、陰険で専横な振る舞いが多かった。大同2年(807年)の伊予親王の変にも関与していたともされる。平城天皇が嵯峨天皇に譲位すると、権勢の失墜を恐れた仲成・薬子兄妹は平城上皇とともに平城京に移り上皇の重祚を画策して二所朝廷の対立を招く。
藤原仲成:原田樹世士

平城天皇

安殿親王あてのみこは、父・桓武天皇の譲位を受けて第51代平城天皇へいぜいてんのうとして即位する(在位806年4月9日 – 809年5月18日)。母は太政大臣藤原良継(式家)の娘乙牟漏。大同4年、病のため同母弟・嵯峨天皇に位を譲り上皇となった。尚侍藤原薬子を寵愛したため、薬子の兄・藤原仲成がこれを利用して藤原氏の繁栄をはかった。仲成兄妹は弘仁1(810)年上皇の重祚を企てたが(薬子の変)、露見して仲成は誅に服し、妹・薬子は毒を仰いで死んだ。上皇も薙髪し、大同12年空海から灌頂を受けた。
平城天皇:中村嘉葎雄

嵯峨天皇

神野親王かみのみこは、同母兄・平城天皇から譲位を受けて809(大同9)年、嵯峨天皇さがてんのうとして即位する(在位809年5月18日 – 823年5月29日)。皇后は橘諸兄の子・橘奈良麻呂の孫・橘嘉智子。薬子の変で平安京の嵯峨天皇と平城京の平城太上天皇の間で「二所朝廷」と呼ばれる政治的混乱となったが、迅速な対応で平定できた影には空海の存在が。
嵯峨天皇:西郷輝彦

伊豫親王

伊予親王いよしんのうは、桓武天皇の第三皇子。母は藤原是公(南家)の娘藤原吉子。異母兄の平城天皇が即位すると、中務卿兼大宰帥に任ぜられ、皇族の重鎮となっていたが、謀反の罪で捉えられ、自害した(伊予親王の変)。後に親王は無実とされ、淳和朝に母とともに復号・復位、一品が追贈されている。
伊豫親王:佐藤仁哉

高岳親王

高岳親王たかおかしんのうは、大同4年(809年)に父・平城天皇が譲位して嵯峨天皇が即位すると皇太子に立てられるが、翌大同5年(810年)の薬子の変に伴い皇太子を廃される。弘仁13年(822年)、四品に叙せられ名誉回復がなされるが、出家し真如と名乗った。して修行した。弘法大師の十大弟子の1人となり、高野山に親王院を開いた。阿闍梨の位をうけ、また『胎蔵次第』を著した。承和2年(835年)に空海が入定すると、高弟の1人として遺骸の埋葬に立ち会っている。
真如:宮崎達也

泰範

泰範たいはんは、最澄の弟子。後継者として信頼を受けていた。最澄と共に空海の密教を学ぶため高雄山で修行するが、のちに天台宗を捨てて空海の弟子となり、空海の十大弟子、また四哲の一人となる。
泰範:佐藤佑介

永忠

永忠ようちゅう:菅貫太郎
幼くして出家して奈良で経律を学ぶ。宝亀元年に入唐し、34年間長安の西明寺などで学ぶ。留学していた最澄の世話をし、延暦24(805)に最澄とともに帰朝する。

阿刀大足

阿刀大足あとのおおたりは、空海の母の弟。桓武天皇皇子伊予親王の侍読として活躍したが、大同2(807)年10月の親王謀反の事件に巻き込まれる。甥の空海が大足を頼って上京、大学へ入学する以前、論語、孝経、史伝などの個人指導を行ったことが、空海の『三教指帰』序などで知られる。
空海の入唐実現は大足の援助によるといい、かの地で発揮された中国語や漢学の才能も大足の影響が大であったといわれる。空海を世に送り出した恩人といってよい。阿刀神社(京都市右京区嵯峨野)は平安遷都の際に移されたと伝える阿刀氏の氏神で、小さな祠を残すだけであるが、大足を偲ぶよすがとなっている。
阿刀大足:森繁久彌

その他

僧・智泉:福田勝洋
僧・実恵:御木本伸介
僧・勤操:伊沢一郎
僧・徳一:辻萬長
悦々:室田日出男
房女:真行寺君枝

あらすじ

この映画で描かれている史実を年代別に一覧にしました。

  • 784(延暦3)年、第50代桓武天皇は奈良の平城京を捨て、長岡京へ遷都。
  • 792(延暦11)年、空海(18歳)は長岡京の大学寮に入り明経道を専攻する。大学ではトップの成績をおさめるが、辞めて山林での修行に入る。
    室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んだ。(この時空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。)
  • 794(延暦13)年 平安京に遷都。桓武天皇は平城京とは違う新しい文化を目指す。
  • 797(延暦15)年 最澄は桓武天皇の内供奉十禅師ないぐぶじゅうぜんじとなる。
  • 798(延暦17)年、空海(24歳)は『聾瞽指帰』を著す。
  • 800(延暦19)年、富士山大噴火。
  • 802(延暦21)年 最澄は桓武天皇より入唐求法にっとうぐほう還学生げんがくしょう(短期留学生)に選ばれ、すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。
  • 804(延暦23)年、空海(31歳)は東大寺戒壇院で得度受戒し、第16次遣唐使留学僧として難波津を出航、博多を経由し7月6日、肥前国松浦郡田浦、五島市三井楽町から、藤原葛野麻呂(大使)・石川道益(副使) 最澄・空海・橘逸勢・霊仙・伴雄堅魚(碁師)らは入唐の途についた。空海と橘逸勢が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船である。この入唐船団の第3船、第4船は遭難した。
  • 804年9月 最澄は明州に到着。通訳に門弟の義真を連れ、長安に寄らず天台山に登り、湛然の弟子の道邃と行満ぎょうまんについて天台教学を学ぶ。さらに道邃に大乗菩薩戒を受け、翛然しゅくねんから禅、順暁から密教を相承する。
  • 805(延暦24)年2月 空海は、西明寺に入り滞在し、醴泉寺の印度僧般若三蔵に師事。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけた。3ヶ月で梵語を身につけた空海の努力に対して、般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられた。
  • 805(延暦24)年2月 ( 貞元21年1月23日)第12代皇帝・徳宗(唐)崩御。第13代皇帝・順宗(唐)即位。
  • 805(延暦24)年7月 最澄は帰国。滞在中に書写した経典類は230部460巻を携えて上洛。たちまち国司に任ぜられる。
  • 805(延暦24)年5月 空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した。
  • 805(延暦24)年6月 空海は大悲胎蔵の学法灌頂を受ける。
  • 805(延暦24)年7月 空海は金剛界の灌頂を受ける。
  • 805(延暦24)年7月 (藤原葛野麻呂帰国。唐の新皇帝祝いのため、高階遠成たかしなのとおなり遣唐使判官として使節団出発。)
  • 805(延暦24)年8月 空海は20年はかかると言われる密教の全てを3ヶ月授かることができた。伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。(この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 – 不空金剛 – 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。)
  • 805(延暦24)年9月 桓武天皇の要請で高雄山神護寺にて日本最初の公式な灌頂かんじょうが最澄により行われる。奈良の長老たちが最澄に頭をさげる姿を見て桓武天皇は、とうとう奈良を抑え込んだと安堵する。
  • 805(延暦24)年12月 恵果和尚が60歳で入寂。
  • 806(延暦25)年3月 遣唐使判官・高階遠成たかしなのとおなりが入唐。
  • 806(延暦25)年4月 第50代桓武天皇崩御。
  • 806(大同元)年4月 子の安殿親王が第51代平城天皇として即位。
  • 806(大同元)年8月 空海は、早く日本に密教を伝えたく、流刑を覚悟で高階遠成の帰国に便乗し、出航(橘逸勢も便乗)。
  • 806(大同元)年10月 空海ら大宰府に到着。大宰帥に昇格し、大宰府に赴任していた藤原縄主から、政権交代を知らされる。
  • 806(大同元)年10月 朝廷では平城天皇が寵愛している藤原薬子を尚侍に任じ、薬子は兄・藤原仲成とともに専横を極めた。空海は20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期けつごの罪にあたり、入京を許されず大宰府に滞在することを余儀なくされた。
  • 807(大同2)年 空海は大宰府・観世音寺に止住。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていた。
  • 807(大同2)年10月 薬子(式家)により、平城天皇(式家母)の異母弟・伊予親王(南家母)を謀反の疑いで捕らえ、川原寺に幽閉し飲食を止める。伊予親王は、伊予親王の侍読をつとめていた空海の叔父・阿刀大足に、空海の持ち帰った密教を守れと言い残し、毒を仰いで自害した(伊予親王の変)。阿刀大足は九州の空海の元へ落ち延びる。
  • 809(大同4)年5月 平城天皇は病を叔父早良親王や伊予親王の祟りと考え、精神的に疲れ果て、独断で同母弟・神野親王に譲位する。神野親王は第52代嵯峨天皇として即位、平城天皇は太上となり、旧都・奈良(平城京)に、文武百官の半分を連れて移り住んだ。
  • 809(大同4)年7月 空海は太政官符を待って入京、高雄山寺(後の神護寺)に入った。
  • 810(大同5)年 空海は、嵯峨天皇より二所朝廷の混乱を鎮める相談を受け、唐の安史の乱を鎮めた、密教の僧・不空金剛の話をし、空海自身も鎮護国家のための大祈祷を高雄山寺で行う。
  • 810(大同5)年3月 (嵯峨天皇は令外官の一つ、蔵人頭を設ける。)
  • 810(大同5)年6月 (嵯峨天皇は平城天皇が設けた観察使を廃止する。)
  • 810(大同5)年10月  平城京の平城上皇が、藤原薬子とその兄・藤原仲成の介入により、平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出し、政権の掌握を図った(平城太上天皇の変(薬子の変))。
    坂上田村麻呂は嵯峨天皇側に付き、藤原薬子・藤原仲成を捕らえるため兵を率いた。平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、薬子は自殺した。
  • 812(弘仁3)年11月 (空海は高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇。)
  • 812(弘仁3)年11月 最澄は、密教の全てを学びたいため弟子の泰範たいはん(史実では円澄、光定も)と高雄山寺におもむき、空海に弟子入りし、灌頂を受ける。
  • 812(弘仁3)年12月 (空海は高雄山寺にて胎蔵灌頂を開壇を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった。)
  • 813(弘仁4)年2月 最澄は比叡山に帰らなければならないため、弟子の泰範(史実では円澄、光定も)を空海から密教を学ばせることを申し入れ、弟子は高雄山寺に留まった。その後、泰範は最澄の再三再四にわたる帰山勧告に応ぜず、一生空海に師事することを選んだ。
  • 813(弘仁4)年11月 最澄が空海に「理趣釈経りしゅしゃっきょう」の借覧を申し入れたが、密教の真髄は口伝による実践修行にあり、文章修行ではないという理由で空海は拒否した。
  • 815(弘仁6)年春 (空海は東国有力僧侶の元へ弟子らを派遣し、自身は西へ苦しむ人々を救う旅にでる。この頃『弁顕密二教論』を著している。)
    最澄は嵯峨天皇に、比叡山に大乗戒壇を開くことを上奏するが、奈良仏教に反対される。
  • 816(弘仁7)年6月 空海は、修禅の道場として高野山の下賜を請い、翌月高野山を下賜する旨勅許を賜る。平城天皇の第3皇子で薬子の変後廃太子された高岳親王を弟子として連れて行く。空海は死罪を覚悟で嵯峨天皇に、実子の正良親王ではなく、異母弟の大伴親王へ譲位することを勧める。
  • 817(弘仁8)年 空海は、万民の寄進によって高野山の開創に着手。
  • 819(弘仁10)年春 (七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手。この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆。)
  • 821(弘仁12)年 空海は、毎年氾濫する讃岐国の満濃池まんのういけ(現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。(史実では空海はこの頃、築池別当として派遣され、約3ヵ月で改修した。映画では空海が高野山に前に行われている。)
  • 821(弘仁13)年 (東大寺の別当も務めた空海が勅許を受けて東大寺に灌頂道場真言院建立。南都における真言教学の拠点となる。現在重要文化財の地蔵菩薩立像と四天王像を有する。)
  • 822(弘仁13)6月 最澄は、比叡山の中道院で没する。享年56(満54歳没)。没後7日目、大乗戒壇設立は、弟子・光定と、藤原冬嗣、良岑安世の斡旋により勅許される。
  • 823(弘仁14)年正月 空海は、嵯峨天皇より東寺(教王護国寺)を賜る。(真言密教の道場とし、後に天台宗の密教を台密、東寺の密教を東密と呼ぶようになる。東寺は教王護国寺の名を合わせ持つが、この名称は鎌倉時代以降に用いられる。)
  • 823(弘仁14)年 嵯峨天皇は、(財政上の問題を理由(上皇が2人(平城・嵯峨)では財政負担が大きい)に反対する藤原冬嗣の主張を押し切って)大伴親王に譲位。大伴親王は第53代淳和天皇として即位。淳和天皇は実子ではなく、嵯峨天皇の子正良まさら親王を立太子したことにより、朝廷に血は流れず、律令国家としては奇跡的に平安の30年となる。
  • 828(天長5)年 (空海は『綜藝種智院式并序』を著す。東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった。)
  • 830(天長7)年 (淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻(天長六本宗書の一)を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を著す。)
  • 831(天長8)年5月末 (空海は、病(悪瘡といわれている)を得て、6月大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留される。病を得て以降の空海は、文字通り生命がけで真言密教の基盤の強化とその存続のために尽力する。)
  • 832(天長9)年 (高野山において最初の万燈万華会が修される。空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している。その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられている。)
  • 834(承和元)年2月 (空海は、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。12月19日、毎年正月宮中において真言の修法(後七日御修法)を行いたい旨を奏上。同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱を置くことが許される。)
  • 835(承和2)年1月 (宮中で後七日御修法を修す。宮中での御修法は、明治維新による神仏分離による短期の中断をはさみ、東寺に場所を移し勅使を迎え毎年行われている。1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。2月30日、年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とする。)
  • 835(承和2)年3月21日 高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅した。享年62(満60歳没)。
  • 921(延喜21)年10月27日 (東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。)

DVD

空海

弘法大師空海入定1150年を記念して製作された1984年の映画。空海を北大路欣也、最澄を加藤剛、桓武天皇を丹波哲郎、嵯峨天皇を西郷輝彦が演じています。

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参考
空海 1984Wikipedia

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