12.中国の古代文明(秦・漢帝国)
12.中国の古代文明(秦・漢帝国)
1. 秦の統一
秦王の政は、紀元前221年、咸陽を都に中国統一を完成した。彼は「王」に変えて「光り輝く神」の意味をもつ「皇帝」の称号を採用し、みずからを始皇帝と名乗った。始皇帝は、中国史上初の統一国家を治めるため、中央から官吏を派遣する郡県制を全国に施行し、農民を直接的に個別に把握することをめざした。また、法家思想にもとづき法治主義を徹底し、焚書・坑儒と言われる言論・思想統制を行って、皇帝権力の絶対化と中央集権化をおし進めた。さらに文字・度量衡も統一し、戦国時代に各国で使用されていた貨幣も半両銭に統一した。

2. 前漢
秦の滅亡後、農民出身の劉邦は楚の名門出身の項羽を破り、紀元前202年、中国を統一して皇帝の位につき(高祖(漢))、漢王朝を建て、都を長安においた。彼は郡県制と封建制を併用した郡国制を施行した。しかしその後、漢は諸侯権力の削減をはかり、それに抵抗する呉楚七国の乱(紀元前154)を鎮圧し、中央集権体制を確立した。
帝位に就いた武帝(漢)は、董仲舒の意見により儒学を官学化し、法治主義に徳治主義を併用することで専制政治の冷酷さを補った。武帝は対外積極策をとり、しばしば匈奴に対して遠征軍を送った。西は匈奴の挟撃をもくろんで張騫を大月氏に派遣した。この目的は達成されなかったが、西域の事情が初めてもたらされ、のちの西域交通路をひらくきっかけとなった。また、南は南海郡など9郡を建て、東北は朝鮮北部に楽浪郡など4郡をおいた。しかし、こうした大遠征は国家財政を圧迫したため、武帝は塩・鉄・酒の専売、均輸・平準などの経済統制策を行い、さらに重税を課して財政難を乗り切ろうとした。このため農民は没落・流民化し、豪族の支配下に吸収されていった。漢は外戚、宦官の権力争いや豪族の巨大化により衰退し、1世紀初めに外戚の王莽が新(王朝)を建国した。王莽は周代の制度を復活させようと、実情に合わない改革を進めたため、赤眉の乱や地方豪族の反乱がおこり、わずか15年で滅亡した。