12.中国の古代文明(秦・漢帝国)
12.中国の古代文明(秦・漢帝国)
1. 秦の統一
外征にも積極的で、北方の匈奴に対しては戦国時代につくられた長城を修築して備え(万里の長城)、匈奴に対し大軍を派遣した。南方は華南に遠征を行い、南越を平定して南海郡以下の3軍を設置した。しかし、始皇帝の急激な改革と過酷な支配は民衆の反発を招き、陳勝・呉広が指導する農民反乱を機に各地で反乱(陳勝・呉広の乱)がおこり、秦はわずか15年で滅亡した。
2. 前漢
秦の滅亡後、農民出身の劉邦は楚の名門出身の項羽を破り、紀元前202年、中国を統一して皇帝の位につき(高祖(漢))、漢王朝を建て、都を長安においた。彼は郡県制と封建制を併用した郡国制を施行した。しかしその後、漢は諸侯権力の削減をはかり、それに抵抗する呉楚七国の乱(紀元前154)を鎮圧し、中央集権体制を確立した。
帝位に就いた武帝(漢)は、董仲舒の意見により儒学を官学化し、法治主義に徳治主義を併用することで専制政治の冷酷さを補った。武帝は対外積極策をとり、しばしば匈奴に対して遠征軍を送った。西は匈奴の挟撃をもくろんで張騫を大月氏に派遣した。この目的は達成されなかったが、西域の事情が初めてもたらされ、のちの西域交通路をひらくきっかけとなった。また、南は南海郡など9郡を建て、東北は朝鮮北部に楽浪郡など4郡をおいた。しかし、こうした大遠征は国家財政を圧迫したため、武帝は塩・鉄・酒の専売、均輸・平準などの経済統制策を行い、さらに重税を課して財政難を乗り切ろうとした。このため農民は没落・流民化し、豪族の支配下に吸収されていった。漢は外戚、宦官の権力争いや豪族の巨大化により衰退し、1世紀初めに外戚の王莽が新(王朝)を建国した。王莽は周代の制度を復活させようと、実情に合わない改革を進めたため、赤眉の乱や地方豪族の反乱がおこり、わずか15年で滅亡した。
3. 後漢
新(中国)を倒して洛陽を都に漢を復興したのが、豪族をまとめた劉秀つまり後漢の光武帝(漢)である。後漢は初め内政に力を入れたが、明帝(漢)・和帝(漢)の時代には匈奴を討ち、西域経営も積極的に進めた。西域都護の班超はカスピ海以東の50余カ国を服属させ、部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)に派遣した。
一方、豪族の進出は、小農民を直接納税者として把握し財政の確保をはかる国家権力の根本を動揺させた。さらに広大な土地を集めた豪族は勢力をのばし、官吏登用法(郷挙里選)によって官僚として中央官界に進出するようになった。その後、中央政界では外戚、宦官の権力闘争がおき、さらに党錮の禁という、宦官による官僚・学者に対する弾圧もあったため、政治は混乱した。政治の混乱は農民を疲弊させて反乱が頻発した。
184年、張角が指導した太平道という宗教結社を主体とした、黄巾の乱がおこり、混乱のなかで豪族の武装化が進み、豪族の群雄割拠状態のなかで、後漢は220年に滅んだ。