15.東アジア文化圏の形成
- 1. 隋の統一
- 2. 唐の興盛と動揺
- 3. 8世紀の世界
- 4. 唐の隣接諸国
15.東アジア文化圏の形成
1. 隋の統一
中国を統一した隋(王朝)の文帝(唐)楊堅は、均田制や府兵制など、北朝の諸政策を継承し中央集権化に努めた。さらに彼は科挙という学科試験による官吏任用法を実施し、貴族の官職の独占を防止して君主権の強化をめざした。第2代煬帝は中国の南北を結ぶ大運河を完成した。これは東晋以後の江南開発による経済力を華北に結びつける役割を果たし、その後も中国経済の大動脈となった。隋は周辺地域への遠征を行い、朝鮮の高句麗を3回にわたって攻めたが失敗し、各地におきた反乱により、統一後30年足らずで滅んだ。
2. 唐の隆盛と動揺
618年に李淵は唐(王朝)を建国し都を長安においたが、実質上の統治者は2代目の太宗(唐)(李世民)である。彼は隋(王朝)の諸制度を引き継ぎ、律令体制を確立した。その体制は均田制とそれにもとづく租・庸・調の税制(租庸調制)、兵農一致の府兵制を基盤にしたもので、この基盤の上に中央には中書省・門下省・尚書省という三省六部をおいて行政を分担させ、律・令・格・式によって政治をおこなった。
第3代高宗(唐)も積極的な対外遠征を進め、北は突厥を服従させ、東は百済・高句麗を破り、西はオアシス都市を領有して勢力を広げ、大帝国を建設した。征服地には都護府をおき、実際の統治はその地の有力者に任せた(羈縻政策)。しかし、高宗(唐)の晩年には妃の則天武后が実権を握り、中国市場唯一の女帝となり、中宗(唐)の妃の韋后も実権を握ろうとし、唐を動揺させた。これを武韋の禍という。ただ、則天武后が科挙官僚を積極的に任用したことは一つの転機となった。
8世紀初めに即位した玄宗(唐)は政治の混乱を収拾させ、開元の治という善政をおこなった。しかし、生産力の発展は商工業を発展させ貿易も盛んになったが、その反面、農民間の貧富の差が開き、重い府兵や税負担などにより、律令政治を支える均田農民は没落していった。そのため府兵制は機能しなくなり、兵制は傭兵を用いる募兵制にかわった。この新制度のもとで新たに辺境におかれ募兵軍団の指揮官となった節度使は、のちに大兵力を握る軍閥となって中央の権力を崩すことになる。しかし玄宗(唐)は晩年楊貴妃を寵愛し、政治は乱れた。この混乱に乗じて節度使の安禄山とその部下史思明が、安史の乱をおこした。
唐は安史の乱後、中央の統制力が弱まり、宦官の横暴、ウイグル・吐蕃の侵入により社会不安は増大した。そのうえ均田制は崩壊して大土地所有が進展し、農民は荘園の佃戸となった。祖庸調制は機能せず、税制は780年、楊炎の建議により夏秋2回、土地・資産に応じ課税する両税法に切り替えられた。社会不安の増大や農民の没落は、9世紀末に塩の専売人黄巣による反乱を引き起こした(黄巣の乱)。この乱後、節度使は群雄割拠・抗争し、多くの貴族は混乱にまきこまれて没落し、荘園は節度使あるいは彼らの武力と提携した新興地主層の手に移った。こうした混乱のなか、907年、唐王朝は節度使の一人朱全忠に滅ぼされた。
3. 8世紀の世界
4. 唐の隣接諸国
チベットでは、7世紀にソンツェン=ガンポが統一国家(吐蕃)を建てた。この国では、独自の文字がつくられ、チベット仏教(ラマ教)も生まれた。8世紀後半には唐とチベットの争いに乗じ、雲南で南詔が勢力を広げた。日本は、遣隋使・遣唐使をおくって中国文化の輸入に努め、645年の大化改新をへて律令国家体制をととのえていった。