51.イタリア・ドイツの統一 イタリアとドイツの統一運動年表
イタリアとドイツの統一運動年表 ©世界の歴史まっぷ

51.イタリア・ドイツの統一

11. 欧米における近代国民国家の発展


51.イタリア・ドイツの統一

  • 1. イタリアの統一
  • 2. ドイツの統一
  • 3. ドイツ帝国の成立とビスマルク外交

51.イタリア・ドイツの統一

イタリアとドイツの統一運動年表
イタリアとドイツの統一運動年表 ©世界の歴史まっぷ

1. イタリアの統一

イタリアはウィーン会議ヴェネツィア・ロンバルディアをオーストリアに領有され、統一にはオーストリア勢力の排除が大きな課題となった。1820年代、カルボナリが各地で革命運動を起こしたが弾圧された(カルボナリの反乱)。1831年、マッツィーニが政治結社「青年イタリア」を結成し統一運動の中心勢力となった。「青年イタリア」は1849年にローマ共和国を建国したが、フランスの干渉で鎮圧され、運動は挫折した。その後、サルデーニャ王権による統一事業が推進され、国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に登用された首相カヴールは近代化に努めた。

カヴールは統一実現には列国の援助が必要だと判断し、ナポレオン3世とプロンビエールの密約を結び、1859年、オーストリアに宣戦しイタリア統一戦争をおこし、ロンバルディアを獲得した。翌60年にはサヴォイア・ニースをフランスに譲るかわりに支持をとりつけ、中部イタリアを併合した。一方、ガリバルディは赤シャツ隊で知られる義勇軍を率いて両シチリア王国を占領し、これをサルデーニャ王に献上したので、1861年、イタリア王国が成立した。しかし、まだオーストリア領やフランスの影響下にある領土が多く残されていた。イタリア王国はプロイセン=オーストリア戦争プロイセン=フランス戦争に乗じ、ヴェネツィアを併合し、ローマ教皇領を占領した。それでもイタリアには「未回収のイタリア」といわれるトリエステや南チロルが残され、イタリア外交の課題となった。また豊かな北部と貧しい南部は経済も文化も異質で、南北の格差と政治の不安定がイタリアのかかえる難題となった。

2. ドイツの統一

三国同盟 未回収のイタリア イタリアの統一 イタリア統一戦争 ドイツの統一 プロイセン=オーストリア戦争 イタリアとドイツの統一地図
イタリアとドイツの統一地図 ©世界の歴史まっぷ

ウィーン会議の結果ドイツ連邦が成立したが、名ばかりのものであったため、自由と統一を求める運動が盛んになった。七月革命の影響のなかで、オーストリアを除く大多数の諸邦が参加するドイツ関税同盟が1834年発足し、経済的統一が進められた。三月革命がおこると、1848年のフランクフルト国民議会では、統一の方法と憲法の制定が討議され、統一の方法についてはオーストリアを統一ドイツに含める大ドイツ主義と、オーストリアを除く小ドイツ主義という2つの路線が対立した。結局、小ドイツ主義による憲法がまとめられて、プロイセン王を皇帝に推挙したが、反動化したプロイセン王の拒否にあい、話し合いによる解決は失敗に終わった。ブルジョワも労働者階級の台頭を恐れて保守化し、ユンカーと妥協したため、自由主義による統一は挫折した。

ドイツの統一はプロイセンの軍事力により推進された。1862年に首相となったビスマルク鉄血政策による軍備拡張を強行し、1864年にオーストリアと結んでデンマークと戦い、シュレスヴィヒ・ホルシュタインを奪った。さらに、プロイセンはこの地の管理問題を口実にして、1866年にプロイセン=オーストリア戦争をおこし、翌67年に北ドイツ連邦を結成してドイツ統一の主導権を握った。1870年にビスマルクはナポレオン3世を挑発しプロイセン=フランス戦争をおこし、これに勝利した。1871年、プロイセン王ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)がヴェルサイユ宮殿で皇帝の位につき、ここにドイツ帝国が成立した。

3. ドイツ帝国の成立とビスマルク外交

1870年代のヨーロッパ地図
1870年代のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ
ビスマルク外交による同盟網
ビスマルク外交による同盟網 ©世界の歴史まっぷ

プロイセン=フランス戦争後の復讐を恐れたビスマルクは、フランスを孤立させてドイツの安全をはかるため、クリミア戦争以来くずれていたヨーロッパの列強体制を再構築した。1873年、オーストリア・ロシアと三帝同盟を結び(ベルリン会議後ロシアの離反で一時瓦解したが1881年には復活)、また1882年には、フランスのチュニジア進出に不満をもつイタリアをさそって、オーストリアをふくむ三国同盟を締結した。さらにバルカン半島でオーストリアとロシアが対立し三帝同盟が消滅すると、同年ドイツ・ロシア間に再保障条約を結び体制の維持をはかった。ドイツの安全をはかるこうした複雑な同盟網を、ビスマルク体制とよんでいる。

約20年間、帝国宰相として独裁的権力をふるったビスマルクは、内政では南ドイツのカトリック教徒を警戒し、「文化闘争」をおこして抑圧した。1878年には社会主義者鎮圧法を制定して社会主義運動を弾圧したが、その一方で社会保険制度を実施して労働者の統合を試みた。また、重化学工業ブルジョワと穀物生産ユンカーの利害を調整した(「鉄と麦の同盟」)。

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