61.列強の国際対立の激化
- 三大勢力(英・露仏・独墺)の鼎立
- 三国協商の成立とバルカン半島の緊張
- 20世紀初めの国際関係
61.列強の国際対立の激化
1. 三大勢力(英・露仏・独墺)の鼎立
ドイツのビスマルク体制は、1890年に世界政策をかかげるヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) の親政が始まると瓦解しはじめた。皇帝がロシアとの再保障条約の更新を拒否したので、ロシアはドイツ・オーストリアに対抗し、工業化の資本を得るためにもフランスに接近し、1891年から1894年にかけて露仏同盟を成立させた。これによりフランスは外交的孤独を脱し、国際関係は流動化した。ドイツは中東に関心をむけバグダード鉄道の建設を進め、ベルリン・ビザンティウム(イスタンブル)・バグダードを結ぶ3B政策で、イギリスの3C政策を脅かした。イギリスはイラン・アフガニスタンでロシアとの対立を深め、さらに義和団事件以後ロシアの脅威を感じ、1902年日英同盟を結んで「光栄ある孤立」政策を放棄した。また1904年英仏協商を結び、アフリカでのイギリス・フランス間の対立関係を調整した。
2. 三国協商の成立とバルカン半島の緊張
ロシアは日露戦争で東アジアでの南下政策を日本に阻止されたので、再びバルカン方面への進出に転じ、ドイツ・オーストリアと衝突するようになった。この結果、ロシアとイギリスは、イランにおける権益を調整して和解し、1907年に英露協商が成立した。この結果、イギリス・フランス・ロシアからなる三国協商が成立し、ドイツ包囲体制が確立された。イタリアは三国同盟の一員であったが、「未回収のイタリア」をめぐってオーストリアと対立するようになり、フランスに接近した。この結果、三国同盟の実態は、ドイツ・オーストリア同盟に近くなり、ドイツは信頼できる唯一の同盟国オーストリアの安定を重視した。
以後、イギリス・ロシアの対立にかわり、イギリス・ドイツの対立が基本的な国際対立となり、対立の焦点は東アジアからバルカン半島に移った。バルカン半島では、パン=スラヴ主義をとなえるロシアと、その拡大をきらうオーストリアが対立した。オーストリアは国内のスラヴ系諸民族にパン=スラヴ主義の影響がおよぶことをおそれていた。1908年にオスマン帝国に青年トルコ革命がおこると、その混乱に乗じてブルガリアが独立宣言し、他方オーストリアは管理下にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナ2州を併合した。しかし、この2州の編入をセルビアがねらっていたので、両国の対立は悪化した。
1912年、ロシアの支持のもとに、セルビアなどバルカン4カ国間にバルカン同盟が結ばれ、領土拡張をねらってイタリア=トルコ戦争に乗じてオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争がおこった。オスマン帝国は敗れたが、獲得した領土の分配をめぐって、ブルガリアの他の3国との間で再び戦争が始まり(第2次バルカン戦争)、オスマン帝国・ルーマニアもブルガリアを攻撃した。ブルガリアは敗北して、ドイツ・オーストリアに接近した。こうして「ヨーロッパの火薬庫」バルカンでは、小国と大国の利害が、そして民主主義が複雑にからみあい、小国の紛争が容易に大国間の戦争につながる危険な情勢がつくられていった。
3. 20世紀初めの国際関係
- 三帝同盟 1873〜78, 81〜87 独・墺・露
- 三国同盟 1882〜1915 独・墺・伊
- 独露再保障条約 1887〜90 独・露
- 光栄ある独立 1856〜1902 英
- 露仏同盟 1891〜1894 露・仏
- 三国協商
- 露仏同盟 1891〜1894
- 英仏協商 1904〜
- 英露協商 1907〜1917