7.帝国の衰退とキリスト教の成立・発展
- 1. 地中海帝国ローマの完成と帝国の解体
- 2. ローマ帝国領域
- 3. キリスト教の成立と発展
7.帝国の衰退とキリスト教の成立・発展
1. 地中海帝国ローマの完成と帝国の解体
オクタウィアヌスは、紀元前27年、元老院よりアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられ、事実上の帝政を始めたが、自らはプリンケプス(市民の中の第一人者)と称して、元老院など共和政の形式を尊重した。このような統治形態を元首政(プリンキパトゥス)とよぶ。
帝政の成立から五賢帝時代に至るまでの約200年間は、「ローマの平和」とよばれる帝国の最盛期であり、トラヤヌス帝の時代に帝国の領土は最大となった。五賢帝時代は帝位の世襲はなく、皇帝は貴族の中から最も優秀な者を後継者としたので、有能な皇帝が続き、「人類の最も幸福な時代」といわれた。そして、属州の隅々まで道路網が発達し、各地にローマ風都市が建設され、属州のローマ化は急速に進んだ。
しかし3世紀に入ると、ローマはゲルマン人やササン朝の侵入に苦しみ、やがて各地の軍団が勝手に皇帝を擁立する軍人皇帝の時代となった(3世紀の危機)。またこの時期、属州の経済発展によりイタリアの経済的地位が低下し、属州の自立化が進み、ローマ帝国の解体が進んだ。この頃になると、ラティフンディア(大土地所有)にかわって、没落した中小農民や解放奴隷などを小作人(コロヌス)として使う小作制(コロナトゥス)が普及してきた。ローマ帝国の混乱を収拾し再建をはかったのが、3世紀後半に即位したディオクレティアヌス帝である。彼は、専制政治を樹立し、帝国の四帝分治制(テトラルキア)を導入し、皇帝礼拝を強要した。彼以後の帝政を専制君主政(ドミナトゥス)という。
ディオクレティアヌス帝の政策をひきついだコンスタンティヌス帝は帝国統一の必要から一転してキリスト教を公認し、330年にあらたな首都をビザンティウムに建設し、コンスタンティノープルと改称した。さらに職業選択の自由を制限したので、ギリシア以来の市民の自由は失われた。また、帝国は巨大な軍隊と官僚制を維持するために都市に重税をかけたので、都市は衰退した。都市を去って地方に移った有力者は、帝国の行政から自立し、自給自足経済を促進したため、帝国の解体は止まらず、属州の反乱があいついだ。さらに375年のゲルマン人の大移動が帝国の混乱をより大きなものにした。このような情勢のなかで、テオドシウス帝はキリストを国教としたが、その死にさいして帝国は東西に2分された。
2. ローマ帝国領域
五賢帝のひとりトラヤヌス帝(位98年〜117年)の治世で最大版図を現出した。
3. キリスト教の成立と発展
ナザレのイエスはユダヤ教の戒律主義・形式主義・排他的選民思想を批判し、神の絶対愛を説いた。己のごとく隣人を愛する者は救われ、最後の審判とともに到来する神の国に入れると約束した。イエスの死後、その教えはペテロやパウロらの使徒によって帝国内の各地に伝えられた。キリスト教は、はじめローマ帝国の迫害を受け多くの殉教者を出したが、下層市民・奴隷らを中心に帝国全土に広がっていった。この間『新約聖書』も編纂され、教典となった。ディオクレティアヌス帝による大弾圧も行われたが、キリスト教は帝国全体に拡大を続けた。これを禁止すれば帝国の統一が維持できないことが明らかになると、コンスタンティヌス帝は313年ミラノ勅令でキリスト教を公認した。ついで325年ニケーア公会議で教義の統一が行われ、のちに三位一体説として完成されるアタナシウス派が正統とされ、キリストを人間であるとするアリウス派を異端とした。431年のエフェソス公会議ではネストリウス派が異端とされたが、ササン朝をへて唐代の中国に伝わり景教とよばれた。また、国際宗教の地位を獲得したキリスト教では、ローマ帝政末期にアウグスティヌスを代表とする教父とよばれる思想家たちが正統教義の確立につとめ、のちの神学の発展に貢献した。