平安京の確立と蝦夷との戦い
桓武天皇は、長岡京そして平安京への遷都とともに、東北地方の蝦夷(古代の東北地方のまだ中央政府に帰属しない人々)の支配に力を注いだが、造都と征夷の二大政策は、国家財政やそれを支えた民衆への過大な負担をともない、晩年の805(延暦24)年、藤原緒嗣の意見を入れてこの二大事業を打ち切ることを決定した。
平安京の確立と蝦夷との戦い
奈良時代後期の政治的変動のなかで、称徳天皇が死去して専権をふるった道鏡が追放されたのち、式家の藤原百川らの策謀によって、それまでの天武天皇系の皇統にかわって天智天皇系の白壁王(施基皇子の子)が即位し、光仁天皇となった。
はじめ光仁天皇の皇后・皇太子には、天武天皇系の血を継ぐ聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた井上内親王とその子他戸親王が立ったが、その2人も排除されて、やがて光仁天皇と渡来系氏族出身の高野新笠との間に生まれた山部親王が即位し、桓武天皇となる。山部親王擁立の背景にも、藤原百川らの力があった。
桓武天皇は、光仁天皇がとった行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政治再建政策を受け継ぐとともに、新しい王朝の基盤を固め、それまでの仏教政治の弊害を断つ意味も込めて、784(延暦3)年に大和の平城京から山背国乙訓郡長岡の長岡京(京都府向日市など)に遷都した。しかし、新しい皇統の桓武天皇の基盤ははじめ確固としておらず、遷都に反対する勢力もあって、桓武天皇の腹心で長岡京の造営を主導していた藤原種継(藤原百川の甥)が暗殺される事件がおこった。この事件をめぐって皇太子の早良親王や大伴氏・佐伯氏の人々が退けられ、幽閉された早良親王は自ら食を絶って憤死した。貴族層内の対立が表面化する一方、その後桓武天皇の母や皇后・夫人が相次いで死去し、皇太子も病を得た。こうした不幸が早良親王の怨霊によるものとされるなかで、なかなか完成しない長岡京からの再遷都がはかられ、794(延暦13)年、ついに山背国葛野郡宇太の地(京都市)に新都を造営した。
怨霊
非業の死を遂げた人の恨みが現世に祟をなすのが怨霊で、それを鎮め慰めて災いを除こうとする信仰となる。奈良時代後期から平安時代前期にかけての政争で倒された人々の怨霊による災いを避けるため、863(貞観5)年に平安京の神泉苑で早良親王たちを祀ったのが御霊会の始まりである。
その後、疫病が流行すると怨霊が祀られて、御霊信仰が広まっていった。のち903(延喜3)年に菅原道真が配流先の大宰府で死去すると、内裏への落雷や藤原時平一族の横死はその祟とされ、菅原道真が神格化されて天神信仰となった。
新都は期待を込めて平安京と名付けられ、「山背国」も「山城国」と改められた。以後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまで、国政の中心が平安京にあった約400年間を平安時代と呼んでいる。
平安京は、東西約4.5km、南北約5.2kmの平城京にほぼ近い規模で、その条坊の痕跡は今の京都の町並み・道路に姿をとどめている。
桓武天皇は、長岡京そして平安京への遷都とともに、東北地方の蝦夷に対する支配拡大に力を注いだ。奈良時代以来、東北では各地におかれた城柵を行政拠点として、東国などの各地から移住させた農民(柵戸)による開拓を進める一方、帰順した蝦夷を国内各地に俘囚として移住させ、蝦夷の地への浸透がはかられた。しかし、光仁天皇のときの780(宝亀11)年、帰順した蝦夷で郡司に任じられていた伊治呰麻呂が乱をおこし、一時は多賀城をおとしいれるという大規模な乱に発展した。こののち、蝦夷を軍事的に制圧するための大軍が継続的に送られ、東北では38年ほどにわたって戦争状態が繰り返された。
蝦夷
古代に蝦夷と呼ばれたのは、東北地方のまだ中央政府に帰属しない人々を指している。中央の貴族達から異民族視されることもあったが、これは唐に准じた小帝国を目指す中華思想の華夷観念からくるもので、人種的に異なるわけではなく、また東北の古代集落跡の竪穴式住居なども基本的に東国のものと変わらない。古代の蝦夷は、中世に蝦夷と呼ばれるようになったアイヌを中心とした人々とは異なる。
桓武天皇は788(延暦7)年、紀古佐美を征東大使とし、翌年、大軍を進めて北上川中流の胆沢地方の蝦夷勢力を制圧しようとしたが、蝦夷の族長阿弖流為の活躍により征東軍は大敗した。
次は周到に準備して、794(延暦13)年大伴弟麻呂を征夷大使、坂上田村麻呂を副使として大軍を送り、田村麻呂らの活躍によって成果をあげた。
対蝦夷戦勝利の報は、平安遷都の儀式の場に伝えられた。坂上田村麻呂は797(延暦16)年には征夷大将軍となり、さらに802(延暦21)年には胆沢の地に胆沢城(岩手県奥州市)を築き、阿弖流為を帰順させて胆沢地方を制圧する。そして軍事官庁の鎮守府を多賀城から北の胆沢城に移した。
翌803(延暦22)年にはさらに北方に志波城(岩手県盛岡市)を築造し、東北経営の前進拠点とした。こうして北上川の上流地域まで、また日本海側でも米代川流域まで律令国家の支配権が及ぶこととなった。のち嵯峨天皇は811(弘仁2)年に文室綿麻呂を征夷将軍として送り、綿麻呂は雫石川の浸食を受けた志波城を移して、その南に徳丹城(岩手県矢巾町)を築いた。
蝦夷征討関係年表
年代 | 和暦 | 事項 |
---|---|---|
647 | 大化3 | 渟足柵築造 |
648 | 大化4 | 磐舟柵築造 |
658 | 斉明4 | 秋田・渟代・津軽方面に進出(阿倍比羅夫) |
708 | 和銅元 | 出羽郡設置、出羽柵築造 |
709 | 和銅2 | 蝦夷征討軍(巨勢麻呂ら) |
712 | 和銅5 | 出羽国設置、内地百姓移民 |
720 | 養老4 | 蝦夷討伐軍(多治比県守ら) |
724 | 神亀元 | 蝦夷の抵抗制圧(藤原宇合)。多賀城築造 |
733 | 天平5 | 出羽柵を雄物川に移す |
737 | 天平9 | 陸奥・出羽の連絡路開通(藤原麻呂・大野東人ら) |
759 | 天平宝字3 | 桃生城築造。雄勝城築造。 |
767 | 神護景雲元 | 伊治城築造 |
774 | 宝亀5 | 蝦夷討伐軍(大伴駿河麻呂) |
780 | 宝亀11 | 伊治呰麻呂の乱(牡鹿郡大領) |
788 | 延暦7 | 蝦夷征討軍(紀古佐美) |
789 | 延暦8 | 蝦夷征討軍敗退 |
794 | 延暦13 | 蝦夷征討軍(坂上田村麻呂ら) |
797 | 延暦16 | 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命 |
801 | 延暦20 | 蝦夷征討軍(坂上田村麻呂) |
802 | 延暦21 | 胆沢城築造、鎮守府移す |
803 | 延暦22 | 志波城築造 |
811 | 弘仁2 | 蝦夷征討軍(文屋綿麻呂) |
以後蝦夷の内民化進む |
しかし、桓武天皇が追求した造都と征夷の二大政策は、国家財政やそれを支えた民衆への過大な負担を伴うものであった。晩年の805(延暦24)年、桓武天皇は徳政相論と呼ばれる議論を裁定し、藤原緒嗣の「天下の民が苦しむところは軍事と造作である」という意見を入れて、ついに対蝦夷戦と平安京造営の二大事業を打ち切ることを決定した。
元慶の乱
その後の878(元慶2)年、出羽国の秋田城下の俘囚(帰属した蝦夷)たちが秋田城司の暴政に対して大規模な乱をおこした。秋田城が焼かれて出羽国司の軍勢では対応できない状況となった。蝦夷の社会は村々が散在して大きな権力集中のみられないことが特徴とされているが、この乱では米代川や八郎潟流域の蝦夷勢力がまとまって行動し、そして雄物川以北を蝦夷の地とすることを要求したのであった。中央政府から出羽権守として派遣された良吏の誉高い藤原保則は、鎮守将軍小野春風とともに説得と武力をもって対処し、その策によってようやく乱の鎮圧に成功した。保則の伝記には、この乱の収束により「津軽より渡島(北海道)に至るまで、雑種の夷人、前代にいまだかつて帰付せざるもの、皆ことごとく内属す」と記されている。
平安京の確立と蝦夷との戦いが登場する作品
エピソード10 桓武天皇と平安京 〜坂上田村麻呂の蝦夷平定〜