周の制度と文化
周(殷を滅ぼしてから紀元前770年までを西周と呼ぶ)は、都を渭水盆地の鎬京におき、殷と同様諸邑の盟主として華北一帯に君臨した。王の一族に領地を与えて世襲させ、各地を統治させる政策をとった。世襲の支配者を諸侯、与えられた領地を封土といい、封土の分与による統治を「封建」と呼ぶ。
周の制度と文化
周(紀元前11世紀〜紀元前256年)は陝西省の渭水盆地を本拠地とし、紀元前14世紀ころから、殷に服属する有力な邑の一つとなっていたが、殷の文化を摂取し、周辺の異民族を服属させるなど、しだいに国力を増していった。
紀元前11世紀、殷には暴君として名高い紂王(帝辛)が現れ、東方への遠征を重ねるなどして国政が混乱したため、文王(周)は東進して華北高原に進出し、文王の子武王(周)は、牧野の戦い(紀元前1027)で紂王の軍を破り、殷を滅ぼした。
周 紀元前11世紀 - 紀元前256年 | 西周 紀元前1027年頃 - 紀元前770年 | 周・武王が殷を滅ぼして周王朝を開く。 | |
東周 紀元前770年 - 紀元前256年 | 春秋時代 紀元前770年 - 紀元前403年 | 犬戎が周の首都鎬京を陥落。洛邑へ遷都。 | |
戦国時代(中国) 紀元前403年 - 紀元前221年 | 晋が韓・魏・趙(三晋)に独立。 |
周(王朝)(殷を滅ぼしてから紀元前770年までを西周と呼ぶ)は、都を渭水盆地の鎬京(現西安付近)におき、殷と同様、諸邑の盟主として華北一帯に君臨したが、特筆すべきは、周王の一族に領地(邑)を与えて世襲させ、各地を統治させる政策をとったことである。このような世襲の支配者を諸侯といい、与えられた領地を封土という。諸侯は、領地の大小や周王室との関係の濃さにより、公・侯・伯・子・男の5ランクの称号(爵)が授けられ、周王の一族のほか、異姓の功臣や各地の土着の首長があてられることもあった。
諸侯は、封土を授けられた見返りとして、周王に対し貢納と軍事奉仕の義務を負っており、王や諸侯のもとには、卿・大夫・士などの世襲の家臣がいて、それぞれ地位と封土を与えられ、その見返りとして、貢納と軍事奉仕の義務を負うという構造になっていた。封土の分与による、このような統治の仕方は「封建」と呼ばれた。これは土地を媒介する主従関係という点で、中世ヨーロッパのフューダリズムや日本の封建制と類似するようにみえるが、周の封建制は、ヨーロッパや日本のように契約や自発的意志にもとづいて結ばれる主従関係ではなく、むしろ血縁を基礎とした氏族制的な政治システムとみるべきである。
中国では、姓を同じくする父系の親族集団を宗族と言い、血縁を政治支配の原理とする周では、宗族のまとまりと秩序がことに重んじられた。
宗族は長子相続と同姓不婚を原理とし、その嫡流(本家)を大宗、次男以下の分家を小宗という。宗族は、大宗の強力な統制のもとで、共通の祖先祭祀などをつうじて、つねに一族の団結に努めていた。このような宗族内の上下関係や秩序を定めたものが宗法であり、これにもとづく道徳的規範が礼である。周の封建制は、周王室を大宗とする宗族的秩序を根幹として成り立っていたのであリ、宗法と礼は封建制を支える支柱としての役割を担っていた。このような西周の政治体制を、殷の祭政一致に対して、礼政一致とも称する。
宗法
宗法は、五世代にわたる本家すなわち大宗と、分家すなわち小宗の関係を規定したもの。大宗と小宗の上下関係を明らかにして、これを基礎として、周の封建制が成立した。すなわち、長子相続制で同姓一族の序列を決め、同姓不婚の原則をつらぬき、異姓一族との序列を明確にすることによって、周の支配体制が強化された。しかし、この宗法は、実際上は、さまざまな矛盾を抱え込んでいた。周王と諸侯との実際の血縁関係は、時代がくだるにつれて気薄になっていき、一方諸侯は、封国内の在地勢力と、協力関係を強化していかなければならなかったからである。
一方、農民も土地神や祖先神の祭祀を中心とした氏族共同体的な村落を形成し、こうした集落が諸侯や家臣によって支配されていた。なお、孟子によれば、周代には井田制が施行されたというが、実態は不明である。