春秋・戦国時代
西周第12代幽王の時、西北より侵入した犬戎(チベット系)によって都の鎬京が侵略され、周は都を東の洛邑に移した(紀元前770)。以後の周を東周(紀元前770〜紀元前256)と呼び、以降秦によって中国が統一されるまで、550年におよぶ戦乱の時代が春秋・戦国時代であり、その前半を春秋時代(紀元前770〜紀元前403)、後半を戦国時代(戦国時代(中国)紀元前403〜紀元前221)と呼ぶ。
春秋・戦国時代
春秋時代
宗族的秩序のうえにたつ西周の「封建」体制は、時代が下るにつれ、周王と世襲諸侯の血縁関係がしだいに希薄になり、諸侯の自立化傾向が避けられないという宿命をかかえていた。また、中国文化を受容して力をつけた周辺の異民族が、しばしば中国に侵入するようになり、西周第12代の幽王のとき、西北より侵入した犬戎(チベット系といわれる)によって都の鎬京が侵略され、周(王朝)は都を東の洛邑(現洛陽)に移した(紀元前770)。これを周の東遷といい、以後の周を東周(紀元前770〜紀元前256)と呼ぶ。
周 紀元前11世紀 - 紀元前256年 | 西周 紀元前1027年頃 - 紀元前770年 | 周・武王が殷を滅ぼして周王朝を開く。 | |
東周 紀元前770年 - 紀元前256年 | 春秋時代 紀元前770年 - 紀元前403年 | 犬戎が周の首都鎬京を陥落。洛邑へ遷都。 | |
戦国時代(中国) 紀元前403年 - 紀元前221年 | 晋が韓・魏・趙(三晋)に独立。 |
この事件は周王の権威を大きく失墜させ、諸侯は自立化の傾向を強め、中原(黄河中・下流の平原部)に割拠してたがいに争う乱世となった。周の東遷以降、秦(王朝)によって中国が統一されるまで、およそ550年におよぶ戦乱の時代が春秋・戦国時代であり、その前半を春秋時代(紀元前770〜紀元前403)、後半を戦国時代(戦国時代(中国)紀元前403〜紀元前221)と呼ぶ。
春秋時代には、まだ周王の権威は残っており、有力諸侯は周王の権威を利用しつつ、みずからの勢力拡大に努めた。有力諸侯は、しばしば「尊王攘夷(周王を尊び、異民族の侵入を討ちはらう)」のスローガンを唱えて、諸侯に同盟(会盟)を呼びかけ、同盟の盟主となることによって勢力をふるおうとした。
春秋五覇
こうして同盟の盟主となった有力諸侯を覇者と呼び、そのうち代表的な5人を春秋の五覇という。五覇のうち、名宰相管仲の補佐をえて最初の覇者となった斉の桓公(位紀元前685〜紀元前643)と晋の文公(位紀元前636〜紀元前628)の2人は確定しているが、他の3人については、宋の襄公、秦の穆公、楚の荘王、呉の闔閭(または子の夫差)、越王の勾践など諸説がある。
春秋五覇
諸国 | 『史記索隠』 | 『荀子』王覇 | 『漢書』注 | 全祖望 |
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斉 | 桓公 | 桓公 | 桓公 | 桓公 |
秦 | 穆公 | 穆公 | ||
宋 | 襄公 | 襄公 | ||
晋 | 文公 | 文公 | 文公 | 文公、襄公、景公、悼公 |
楚 | 荘王 | 荘王 | ||
呉 | 闔閭 | 夫差 | ||
越 | 勾践 |
春秋時代の形勢は、斉・宋・晋など中原の諸侯と、南方の強国楚との対立が基調であった。楚の立地した長江流域は、当時、漢族と南方系民族が入り交じる境界地帯となっており、風俗なども中原とは異質な点があったらしい。もともと王の称号は周王だけが名乗るものであり、中原の諸侯が公と称して王とは名乗らなかったのに対し、楚では早くから王号を用いていた。しかし、長江の下流に呉や越が勃興すると、楚もかつての勢力を失っていった。
戦国時代
戦国七雄
国 | 建国年 | 滅亡年 | 国都 | 始祖 | 滅亡原因 | 姓 | 最初の爵位 | 分封者 |
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韓 | 紀元前403年 | 紀元前230年 | 陽、新鄭 | 景侯 | 秦により滅亡 | 姫 | 侯爵 | 威烈王 |
趙 | 紀元前403年 | 紀元前228年 | 邯鄲 | 烈侯 | 秦により滅亡 | 趙 | 侯爵 | 威烈王 |
魏 | 紀元前403年 | 紀元前225年 | 安邑、大梁 | 文侯 | 秦により滅亡 | 姫 | 侯爵 344年:王 | 威烈王 |
楚 | ? | 紀元前223年 | 丹陽、郢、陳、寿春 | 熊繹 | 秦により滅亡 | 羋 | 子爵 | 成王 |
燕 | 紀元前1100年 | 紀元前222年 | 薊 | 召公 | 秦により滅亡 | 姞 | 伯爵 | 武王 |
斉 | 紀元前386年 | 紀元前221年 | 臨淄 | 太公 | 秦により滅亡 | 嬀 | 侯爵 344年:王 | 安王 |
秦 | ? | 紀元前206年 | 雍、咸陽 | 非子 | 反秦軍により滅亡 | 嬴 | 伯爵 | 孝王? |
戦国時代の諸国は、従来の邑の集合体という国家形態から、領域全体を支配する領土国家へと変身し、秦・魏・趙・楚などは、開拓や水利事業をさかんに推進して、領土の拡大と農地の開発に努めた。七雄のうちもっとも西方にあった秦は、紀元前4世紀ころ富国強兵に成功し、急速に強大になった。これに対し、他の6国では、秦に対抗して6国が同盟を結ぶ合従策や、各国がそれぞれ秦と結んで安全をはかる連衡策など、権謀術数をつくした外交戦略が展開されたが、秦はたくみに6国の分断をはかり、東周の王室と6国を次々に滅ぼして、紀元前221年、ついに中国を統一した。
鄭国渠
秦の圧力に苦しんでいた韓は、推理技術者の鄭国を秦に送り込み、大規模な水利事業をおこさせて、秦の国力を消耗させようとはかった。こうして渭水の支流から約120kmにおよぶ大用水路を開く事業が開始されたが、工事の途中で、鄭国が韓の手先であることが露見してしまった。
殺されようとした鄭国は、この事業は必ず秦の利益になると弁明し、ついに工事の続行を許された。こうして完成した用水路が鄭国渠であり、この結果、4万余頃(約18万ha強)の肥沃な農地が開発されたという。時に秦王政(のちの始皇帝)の時代であり、秦はこれによって中国統一事業の財政的基盤をえたともいわれる。
春秋・戦国時代が登場する作品
孫子兵法
孫正義やビル・ゲイツも愛読したビジネス戦略の礎となった古典、孫子兵法。諸葛亮孔明や曹操が戦略の根基とした無敵の兵法の誕生秘話をHDでドラマ化。
中国春秋時代の兵法書『孫子』を著したとされる思想家孫武の半生、紀元前500年頃の群雄割拠の時代を描いた物語。
恕の人 -孔子伝-
生涯をかけて仁・義・礼・智・信の心を説き続けた孔子は、後に儒教、道徳の始祖と呼ばれる。
しかし、孔子は完璧な聖人でもなければ、超人でもない。国を転々とし、ついに大業を成し遂げることなく人生を終えた不遇の人なのである。