五胡十六国と南北朝
- 五胡十六国(304年〜439年)
- 南北朝(439年〜589年)
五胡十六国と南北朝
五胡十六国
華北では、まず南匈奴が強盛を示したが、つづいて匈奴の別種といわれる羯が政権をたてた。
また、2世紀の中頃より中国の北辺を脅かしていた鮮卑も長城を越えて侵入し、政権を打ち立てた。
チベット系の氐や羌も、それぞれ勢力を拡大して政権をたてた。
このうち、氐のたてた前秦は、長安に都をおき強勢となり、長江以北を支配下に入れ、一時的に華北を統一した。さらに中国統一を目指して南下したが、東晋との淝水の戦いで敗れ(383)、これを契機に前秦は崩壊し、南北分立の形勢が決まった。これら匈奴・鮮卑・羯・氐・羌のなどの諸民族を総称して五胡という。このような分裂状態の五胡十六国時代を経て、5世紀前半に鮮卑の拓跋氏がたてた北魏の太武帝によって華北が統一された(439)。
また、都を平城(現山西省大同市)から洛陽に移し(494)、本格的に中国支配にのりだすとともに、鮮卑人の姓を漢人風に改めさせ、鮮卑の服装や言語を禁止するなど、徹底した漢化政策を推し進めた。
鮮卑族拓跋氏の故郷
1980年、中国の黒竜江省のチチハル市から嫩江を北にさかのぼり、さらにその支流の甘河を250kmほどさかのぼったところ(当時の行政区画は、内モンゴル自治区ホロンバイル盟オロチョン旗)から、鮮卑族拓跋氏の発祥地に関する重要な遺跡の発見が報告された。その場所は、大興安嶺山脈北部の針葉樹林の中にそびえる崖にうがたれた自然の洞窟(嗄仙洞)で、その石の壁に漢字で書かれた文章が刻まれているのが発見された。
そこには、北魏の太武帝の太平真君4年(443年)に、ここに使者を派遣して天地と祖先をまつったことが記されており、その内容は、北魏の歴史を記録した『魏書』という書物に書かれている記事と一致した。
これまで、鮮卑族拓跋氏の発祥地についてはさまざまな説が唱えられてきたが、文献に記録されたものとまったく同じ内容を示す資料の発見によって、その場所が確認されたのである。
北朝
東魏・西魏
孝文帝の死後、漢化政策に反対する軍人の反乱をきっかけにして内紛がおこり、国力は急速に衰え、やがて東魏と西魏に分裂した。
西魏は長安に都をおき、府兵制をはじめたが、宇文氏に国を奪われ、北周となった。
北周
北周は、東魏にとってかわった高氏の北斉を併合して華北を再び統一し、581年に楊堅(隋の文帝)によって国を奪われるまで続いた。
この北魏による華北の統一から隋(王朝)成立にいたるまでを北朝という。
南朝
宋
一方、江南に東晋が成立すると、華北に住んでいた漢人の貴族や豪族、そして多くの農民が戦乱をさけてこの地に移住した。このため開発の途上にあった長江の中・下流域は、急速に発展した。東晋は約100年続いたが、その末期には政治が乱れ、華北への反攻で戦果をあげた武人出身の劉裕(武帝)が帝位について宋(南朝)(420〜479)をたてた。
斉・梁・陳
その後も江南では同様の政権交代がくりかえされ、そうに続いて斉(南朝)・梁(南朝)・陳(南朝)の短命な政権がつぎつぎに興亡し、最後の陳(南朝)も、北周をついだ隋によって滅ぼされた(589)。宋(南朝)以降の4つの政権は、いずれも東晋と同じように建康に都をおいた。これらの諸政権を合わせて南朝といい、さらに呉と東晋を含めて六朝という。
また、220年に後漢が滅んで三国の魏が成立してから、589年に隋が陳を滅ぼし中国を統一するにいたるまでの時代を総称して、魏晋南北朝時代と呼んでいる。
宋(南朝)から以降、皇帝になったものは、おおむね身分の低い武人の出身者であった。貴族たちは、その地位を保つため、こうした皇帝に官僚として仕えながら、貴族社会を確立していった。したがって、南朝では、いずれも貴族勢力が優勢で、皇帝権は振るわなかった。