社会経済の変化
後漢末から南北朝時代をつうじて、地方社会の有力者として豪族は各地で力を強めた。
以上の土地へのさまざまな対応策も、国家がある程度の数の農民を確保し、税収の基礎を固めるのには役立ったが、豪族・貴族による大土地所有の進行をさまたげるまでにはいたらなかった。
社会経済の変化
後漢末から南北朝時代をつうじて、地方社会の有力者として豪族は各地で力を強めた。
官吏を任用する制度として、漢代の郷挙里選にかわって、魏王朝の文帝(曹丕)のときから九品中正(九品官人法)が始められた。
郷挙里選は、地方長官が在野の有能な人物を官吏候補者として推薦する制度であったが、しだいに豪族の子弟が推薦される場合が多くなり、本来の目的と反するようになっていた。こうした弊害をのぞく目的で始められたのが九品中正で、地方に中央政府から任命された中正官をおき、郷里の評判によって人物を九品(9等級)に分けて推薦した。これを郷品といい中央政府ではこの郷品にもとづいて、それにふさわしい等級(官品)の官職を与えた。
しかしながら、中正官に任命された人物も、その地方の豪族であったから、有力な豪族の子弟を推薦することになり、その結果、豪族はその社会的地位に応じた政治的地位を得て、貴族政治を成立させることになった。有力な豪族は、それぞれの政権で主要な官職を独占し、さらに彼ら同士で交際通婚して 門閥貴族となり、「上品に寒門なく下品に勢族なし」(九品中正による貴族の高級官職独占の状況を述べたもので、寒門とは貴族より低く位置付けられた家柄、勢族とは有力な貴族をさす。)といわれる状態を生み出した。
後漢末以来の戦乱や豪族・貴族による大土地所有の発展によって、土地を失った農民は郷里を離れて流民となり、あるいは豪族・貴族の奴隷や隷属民になるものも現れた。これは、国家が直接支配する土地と人民とを減少させることを意味し、必然的に国家の財政、さらには軍事力の基盤を危うくするものであった。
このような事態への対応策としておこなわれたのが、三国の魏王朝の屯田制、西晋の占田・課田法、北魏の均田制である。
屯田性は、漢代、辺境で守備兵に戦闘の合間に耕作させることから始まった制度である(軍屯)。これに対して、魏の曹操は軍屯とは別に、後漢末の戦乱のために生じた中原の所有者のいない荒地を国有地とし、それを流民や一般農民を募って耕作させ、収穫の5〜6割を小作料として徴収する土地制度をはじめた。これが魏の屯田制(民屯)である。魏の財政は、主にこれに依存していたといわれる。なお、呉でも民屯がおこなわれた。
西晋の武帝(司馬炎)は、呉を滅ぼした直後の280年に占田・課田法といわれる土地制度をおこなった。このうち、占田は、土地所有の最高限度を定めたもので、男子70畝、女子30畝を上限とし、官人には官品にしたがって上限がそれぞれ定められた。なお、課田の解釈には、農民に国有地を割りつけ耕作させたとする説など種々のものがある。
なお、特徴的なことは、奴婢・耕牛をも対象にして土地が支給された点で、これらの土地は、当然、奴婢・耕牛の所有者である豪族に帰属することになったわけであり、北魏の均田制が豪族に有利な側面をもっていたことは確かである。こののち、均田制は北朝を経て隋に受け継がれ、唐で整備された。
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このような土地へのさまざまな対応策も、国家がある程度の数の農民を確保し、税収の基礎を固めるのには役立ったが、豪族・貴族による大土地所有の進行をさまたげるまでにはいたらなかった。
とりわけ南朝では華北から流入する人々によって長江中・下流域の人口が急増し、江南の開発が進んだ。こうした状況のもとで、荘園や隷属民を所有する豪族・貴族は穀物、野菜、畜産、水産物、手工業製品などを自給する総合的な経営を推し進めた。そのため、一般民衆との経済力の差はますます開いていった。