唐の建国と発展
李淵は隋末の混乱の中で太原で挙兵し長安を落として根拠地とした。隋の恭帝侑を傀儡として立て、禅譲により唐を建国した。李淵は在位9年の間王世充などの群雄勢力と戦い、また律令を整備した。626年に子の李世民(太宗)に譲位し、太宗が残存の群雄勢力を一掃して唐の天下統一を果たした。
唐の建国と発展
隋末の混乱のなか、各地に蜂起した群雄を抑えて、中国を再統一したのは、太原(現山西省)で挙兵した李淵・李世民の父子であった。
李淵(高祖(唐))、李世民はいち早く関中を占拠すると唐(618〜907)を建国し、長安を都と定めた。
高祖(唐)の時代、各地に割拠した群雄(河北の竇建徳、王世充など)はかなりの勢力を保っていたが、次子李世民の活躍によってしだいに平定されていった。
626年、李世民は兄の皇太子・李建成をクーデターによって打倒(玄武門の変)、第2代皇帝太宗(唐)に即位し、628年、群雄勢力を一掃して天下を完全に統一した。
太宗(唐)は国内においては、諸制度を整備して唐(王朝)国家体制の基盤を確立し、対外的には、最大の強敵であった東突厥を撃破し、西北遊牧民族の首長から天下汗の称号を贈られるなど、大いに唐(王朝)国力を伸張させた。
このため太宗(唐)の治世は、古来より貞観の治と称されて讃えられている。
太宗(唐)から次の高宗(唐)の時代は、唐(王朝)第一の盛時であり、唐は世界的な大帝国へと発展していった。
高宗(唐)時代には、西は西突厥を大破して滅亡に追い込み、アラル海にいたる西域を支配下におさめ、東は新羅と結んで、高句麗・百済を滅ぼすなど、唐(王朝)領土は最大に達した。
唐は、領土内の異民族に対しては、それぞれの部族長に唐朝の官爵を与えて、間接的に諸部族を支配する羈縻政策を採用し、これら諸部族に対する統治・監視機関として、辺境に六都護符(安西・北庭・安北・単于・安東・安南)を設置した。
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