隋唐の社会
九品中正の特権を失った唐代の貴族層は朝廷の官職につくことを重視して長安・洛陽へ移住し、貴族層は王朝権力に密着した官僚貴族となっていった。あらたに大土地所有を実現した 新興地主層が勢力をのばし、王朝権力に寄生する存在となった貴族層は唐朝の滅亡と運命をともにして滅びていった。
隋唐の社会
隋唐時代には、中央集権体制が強化され、貴族層は魏晋南北朝時代に比べると大きく勢力を後退させたが、なお大きな政治・社会的勢力を保持していた。そうした意味で、隋唐時代は貴族政治の末期、終焉期として捉えることができる。
科挙
隋代に開始された科挙は、唐代に入って大きな発展をとげた。科挙には、詩文の創作を中心とする進士科や、儒教の教義を中心とする明経科などがあったが、唐代では進士科がもっとも重んじられ、高級官僚への登竜門として大変な難関となっていた。
しかし唐代には、科挙に合格しただけでは高官になることができず、実際に任官されるためには、吏部でおこなう試験(銓選)に合格しなければならなかったが、そこで審査されたのは、「身(容姿)・言(言語)・書(筆跡)・判(公文書の文体)」といった貴族的教養であった。また高官の子弟には、父祖の官位によって無試験で官位を与えられる制度(門蔭の制)や、国立大学である国子監への入学特権など、さまざまな優遇処置があった。科挙(進士科)にしても、合格者の多くは貴族層に属する人々であった。
官人永業田
また、土地国有を理念とする均田制のもとでは大土地所有が抑制されたが、官僚身分に対しては官人永業田と呼ばれる土地所有が公認されていた。しかし、九品中正という制度的特権を失った唐代の貴族層にとって、手段をつくして代々朝廷の官職につくことが重視され、そのため官界での活動や社交に有利な長安・洛陽への一族をあげての移住が進み、貴族層はしだいに地方における大土地所有という基盤から分離する傾向が強まっていった。この傾向は、安史の乱による地方の荒廃によっていっそう進行し、貴族層は王朝権力に密着した 官僚貴族となっていった。
一方、両税法による土地所有の公認により、地方には、貴族層にかわってあらたに大土地所有を実現した 新興地主層が勢力をのばしていった。こうして土地所有という基盤を失って王朝権力に寄生する存在となった貴族層は、唐朝の滅亡と運命をともにして滅びていったのである。
東西貿易
唐は中央アジアにおいて、最初はササン朝、のちにウマイヤ朝やアッバース朝と領土を接したため、陸路による東西貿易が発達した。そしてソグディアナ地方出身のイラン系のソグド人が中継商人として活躍した。また海路からはアラビアなどのムスリム商人が来航し、その貿易の窓口となった広州には、彼らの居留地区(蕃坊)がつくられたほか、貿易管理局として市舶司が設置された。
西域文化
首都長安は、当時人口100万を数える大都市で、異国情緒に満ちた国際色豊かな都市であった。当時の中国には西域の商人とともに彼らの文化が流入し、ソグド人に代表される西域出身者を胡人と呼び、長安には、胡姫(西域出身の女性)がもてなす酒場が賑わい、胡楽(西域音楽)・胡旋舞(体を旋回させる西域の舞踊)・打毬(ポロ競技)など西域の風俗が流行した。小麦を製粉して食べる風習(胡餅)も西域から伝わって、唐代に定着したものである。
国際性
また、蕃将と呼ばれる非漢族出身の将軍(タラス河畔の戦いで敗れた高句麗出身の高仙芝やソグド系の安禄山はその一例)が活躍し、インドからは密教の高僧が相ついで渡来したほか、日本や新羅など東アジアの諸国からも多数の留学生や商人が来訪するなど、その国際性は中国歴代王朝のなかでも極立っている。日本の正倉院の宝物に西域の文化的影響がみられるのは、唐の国際性の反映である。
坊市制
長安は、政治都市としての性格が強く、街路によって碁盤の目状に区画された坊には囲壁と坊門があり、夜になると閉められるので、夜間は坊から出ることはできなかった。商業は東市・西市の国営市場において管理されていた。しかし、唐の後半になると貨幣経済の発展にともない商業が急速に活発化し、坊市制や国家による商業統制は崩壊にむかった。
商業
商人は行と呼ばれる同業者組合をつくり、また倉庫業や金融業も発展して、飛銭と呼ばれる送金手形なども使われるようになった。また、地方には草市と呼ばれる市場ができ、宋代にかけて鎮や市と呼ばれる小商業都市にに発展していった。