金の成立と西遼
完顔部の首長・阿骨打は、遼の圧政下にあったツングース系女真族を統一して1115年、金を建国した。第2代太宗呉乞買のときに宋と結び1125年、遼を滅ぼした。遼の太祖耶律阿保機の8世の孫と称する王族の耶律大石は西トルキスタンに逃れ、カラ・ハン朝を倒して西遼を建国、都をベラサグンにおいた。
金の成立と西遼
中国東北地方の東部にある松花江の中流一帯で、半農・半牧の生活を営んでいたツングース系の女真族は、約200年にわたって遼(遼朝)の圧政下にあった。
やがて完顔部の首長である阿骨打は、急速に女真族の統一を進め、1115年、遼から自立して金(金朝 1115〜1234)を建国し、都を会寧府(現黒竜江省ハルビン市阿城区南白城)に定めた。
やがて完顔部の首長である阿骨打は、急速に女真族の統一を進め、1115年、遼から自立して金(金朝 1115〜1234)を建国し、都を会寧府(現黒竜江省ハルビン市阿城区南白城)に定めた。
1114年、阿骨打は寧江州の戦いで遼軍を敗北させた。
そのころ遼(遼朝)は帝室の内紛により混乱し、また中国文化になじんで遊牧民独自の精悍さが失われつつあり、国力は衰退していた。
金は第2代太宗呉乞買のときに宋と結んで遼を攻め、1125年、遼の天祚帝を捕らえてついに遼を滅ぼした。
そのとき遼の太祖耶律阿保機の8世の孫と称する王族の耶律大石(徳宗)は、支配下にあった部族を率いて西トルキスタンに逃れ、この地にあったトルコ系のイスラーム教国であるカラ・ハン朝(940〜1132)を滅ぼし、西遼(カラ・キタイ)(1132〜1211)を建国し、都をベラサグンにおいた。西遼の支配圏は東西トルキスタンに及び、遼文化をしばらくこの地に保持した。
カラ・キタイとは黒い契丹という意味。
またウイグル商人やムスリム商人と結んで、東西交易路をおさえ、西方世界と東方世界の文化的交流にも大きな役割を果たした。
1211年、西遼は、チンギス=ハンに攻撃されて西走してきたモンゴル族ナイマン部の王子クチュルクによって王位を簒奪され(第一次対金戦争)、さらに1218年、西征してきたモンゴル軍によって滅ぼされた(第二次対金戦争)。