地方の反乱と武士の成長
地方の各地に成長した豪族や有力農民が、勢力を拡大するために武装し「兵」と呼ばれ家子や郎党を率いて国司に反抗した。
畿内近国に成長した豪族が朝廷の武官となり「武士」と呼ばれ、宮中の警備、貴族の身辺や都の市中の警護にあたった。
地方の反乱と武士の成長
10世紀に政治が大きく変質していくなかで、二つの大きな流れが生まれた。
- 地方の各地に成長した豪族や有力農民が、勢力を拡大するために武装し、弓矢をもち、馬に乗って戦うようになった。彼らは兵と呼ばれ、家子といわれる一族や郎党などの従者を率いて互いに戦いを繰り返し、ときには国司に反抗した。
- 畿内近国に成長した豪族が、朝廷の武官となり、貴族に武芸をもって仕えるようになった。彼らも兵や武士と呼ばれ、滝口の武士のように宮中の警備にあたったり、貴族の身辺や都の市中の警護にあたった。
この二つの流れは、相互の交流を経ながら、各地に一族の結びつきを中心にした連合体である武士団をつくった。とくに辺境の地方では、旧来の大豪族や、任期終了後もそのまま任地に土着した国司の子孫などが多く、彼らを中心に大きな武士団が成長し始めた。そのなかでも東国(関東地方)は良馬を産したところから武士団の成長が著しかった。
その東国に早くから根をおろしたのが桓武天皇の曽孫の高望王(生没年不詳)が平姓を与えられたことで始まる桓武平氏である。そのうちの平将門は、935(承平5)年、下総を根拠地にして一族と私闘を繰り返すうちに、叔父の平国香を殺したところ、常陸の国司に反抗していた豪族の藤原玄明(生没年不詳)が将門に援助を求めてきたことから、玄明と手を結び、939(天慶2)年に反乱を起こした(将門の乱)。
将門は常陸の国府を襲って国印を奪い、さらに下野・上野の国府を攻め落とし、東国の大半を征服して、ついに新皇と称するにいたった。
朝廷は藤原忠文を征東大将軍として東国に下らせたが、その到着の前に平国香の子の平貞盛(生没年不詳)が下野の豪族藤原秀郷(生没年不詳)らの協力を得て、将門の本拠地を襲い、将門を倒した。
それとほぼ同じころ、もと伊予の国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱をおこし(純友の乱)、伊予の国府を奪い、東は淡路まで占領し、西は大宰府を攻め落として、朝廷に大きな衝撃を与えた。ここでも藤原忠文が征西大将軍に任じられたが、それに先立って、小野好古や清和源氏の祖である源経基らによって純友は討たれ、ここに東西の反乱はおさまった。二つの乱はときの元号から承平・天慶の乱と呼ぶ。
これらの乱を通じて朝廷の軍事力の低下と地方武士の実力を知った朝廷や貴族たちは、武士を積極的に侍として奉仕させるようになった。また地方の武士を館侍や国侍として国司のもとに組織するとともに、諸国の追捕使や押領使に任命して、治安維持を分担させるようになった。盗賊や反乱者を追捕するために派遣されるのが追捕使であり、内乱などに際して兵士を統率するのが押領使で、いずれも次第に諸国におかれるようになった。
国侍
『今昔物語集』には、陸奥国の「国の内の然るべき兵ども」が国司を饗応して、昼夜、仕えたという話や、常陸の国司源頼信が「館の者ども、国の兵ども」を率いて鬼怒川の浅瀬を突破し、下総の平忠常を攻め降参させたという話を載せている。国司の館を警護し、国司の命令で合戦・狩などを行ったり、国内の一宮などの神社の神事に奉仕したのが国侍であって、彼らは国衙に登録されて代々にわたって奉仕した。
こうして諸国では、赴任した国司の館を国内の武士が警護したり、国司が主催する狩や国司が祭る神の神事である相撲や武芸に武士が奉仕する体制が生まれていった。
11世紀初めに、沿海州地方に住む女真人である刀伊が九州北部を襲ったとき、素早く撃退できたのも、九州の地方武士が大宰権帥の藤原隆家によってよく組織されており、その指揮下で活躍したためである。