ムガル時代の社会と文化
ヒンドゥー・イスラム両文化は本来異質のものであったが、インドにおける長年の接触の結果、さまざまな面で融合した。特にヒンドゥー文化に理解を示したアクバル以後、この傾向は強められ、シャー・ジャハーンの時代を頂点とするインド・イスラーム文化の発達をみた。
ムガル時代の社会と文化
ムガル時代には亜大陸の各地で年が発達し、商工業が栄えた。デリー、アグラ、ラホールなどは政権の所在地であると同時に大消費地、経済活動の中心地でもあった。地方の特産物の生産も増大したが、特に綿織物はインドの代表的な輸出品となり、アジア・ヨーロッパの諸国でもてはやされた。貿易によって大量の銀が流入したため貨幣経済が発達し、貨幣給与の支給やち勢の銀納化もおこなわれるようになった。
ヒンドゥー・イスラム両文化は本来異質のものであったが、インドにおける長年の接触の結果、さまざまな面で融合した。特にヒンドゥー文化に理解を示したアクバル以後、この傾向は強められ、シャー・ジャハーンの時代を頂点とするインド・イスラーム文化の発達をみた。宗教の分野ではカビール(1425〜1492)がでて、ヒンドゥー教のバクティ信仰とイスラーム教との調和をめざした。彼はラーマ神もアッラーも同じ神の別名にすぎないと説き、また偶像崇拝を否定するとともに一神教的信仰を説き、シク教を開いた。シク教はムガル帝国の迫害をうけながらもパンジャーブ地方を中心に信者を増やした。今日、インド共和国人口の約2%、2200万人がシク教徒である。
文学の分野では、北インドの口語にムガル帝国の公用語であるペルシア語の要素をたぶんに加えたウルドゥー語が生まれ、その文学がおこった。この言語はアラビア文字を用いて書かれ、今日パキスタンの国語となっている。
タージ・マハル廟
タージ・マハル廟 は、ムガル帝国第5代シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズ・マハルの死をいたみ、アグラ市郊外のジャムナー河畔にたてた墓廟である。20年余の歳月をかけて完成した白大理石の建造物は、56m四方の基壇の上にきずかれ、中央のドームの高さは58mに達する。治世の末年に息子のアウラングゼーブに帝位を追われ、アグラ城に幽閉されたシャー・ジャハーンは、城内の一室から遠望されるこの廟を日々眺めて過ごしたという。シャー・ジャハーンは、はじめジャムナー川の対岸に自分のための同規模の墓廟をたてるつもりであったが、その夢はかなわず、帝の遺体は愛妃の遺体とならんで、この廟の地下に眠っている。
建築の分野では、アグラのタージ・マハル廟 、デリーやアグラの王城(アーグラ城塞)に代表される壮麗なインド・イスラーム建築がたてられた。絵画ではペルシアの細密画(ミニアチュール)の手法を用いたムガル絵画が流行し、宮廷生活がその題材となった。またムガル絵画の影響をうけたラージプート絵画が、西インドのラージャスターンや西北インドのカシミールで流行し、ヒンドゥー教の神々などを題材としてさかんに描かれた。