オランダ東インド会社の活動
この時代には、繊維産業でも、陶器業などでも、アジアの生産技術の水準がヨーロッパをはるかにこえていただけに、工業製品などの一般商品でヨーロッパからアジアに輸出できるものはほとんどなかった。イギリス・オランダ・フランスはポルトガルやスペインとは違って、キリスト教の伝道よりは利潤を重視した。
オランダ東インド会社の活動
この会社は、本国オランダではアムステルダムの有力商人を中心に「十七人会」と呼ばれた重役会議によって運営され、会社の活動はバルト海貿易とならぶオランダの繁栄の象徴ともなった。アジアでは、香料の直接生産地にあたるインドネシアに力を注ぎ、ジャワのバンタム(現ジャカルタ)を拠点とした。ここにバタヴィア城を築き、ついで現地の支配者やアンボイナのポルトガル人と対抗しつつ、ティドール、テルナーテなどをつぎつぎと占領し、1641年には、ついにマラッカをも占領した。
こうして、香料の原産地を押さえたオランダ東インド会社は、伝統的なアジアの流通経路に入りこんだだけのポルトガルとは違って、香料をほとんど完全に独占した。この会社はまた、後続のイギリスをの他の国の会社にくらべても、圧倒的な資本力を誇ったうえ、インドネシアへの植民計画を進めた初期の総督、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(1587〜1629)の活躍などもあって、その勢力はたちまち拡大した。
1623年には、イギリス人のいう「アンボイナ虐殺事件」によって、インドネシア水域からイギリス人を追放することにも成功した。
そのうえ、1652年にはアフリカ南端にケープ植民地を創設して、ヨーロッパとアジアを結ぶインド航路の主導権も握った。この地に住みついたオランダ人は、ブール(オランダ語で「農民」の意味)人と呼ばれた。
オランダ東インド会社は、インドネシアでは香料の徹底した独占をはかり、たとえば会社がみずから土地を割り当てて栽培にあたらせたり、特定の島以外のものは伐採してしまうという極端な方法をさえ採用した。しかし、オランダにとって不運だったのは、原因はいまだに明確ではないが、17世紀のうちに胡椒や香料は、ヨーロッパでそれほど人気がなくなったことである。アジアからヨーロッパにもちこまれたいわゆる「東方物産」は、17世紀後半には、胡椒や香料から綿織物・茶・コーヒーなどに重心が移った。
このような傾向は、イギリスやフランスに有利に働いた。英・仏両国はあとから進出しただけに香料諸島には入れず、インドに拠点をおくほかなかったが、そのインドこそが綿織物の生産地だったからである。しかも綿織物は、かねてアジア内でもインドネシアなどに輸出されていたのである。
この時代には、繊維産業でも、陶器業などでも、アジアの生産技術の水準がヨーロッパをはるかにこえていただけに、工業製品などの一般商品でヨーロッパからアジアに輸出できるものはほとんどなかった。このため、一貫して貴金属、とくに伝統的にアジアで評価の高かった銀が輸出されていた。その多くはもともとアメリカ産のものであったが、この時代には、日本もアメリカにつぐ貴金属の輸出国であった。その日本が1639年に鎖国政策をとり、江戸幕府によって平戸などで取引していたポルトガル人が排除されたあとは、ヨーロッパ諸国中ただ一国、貿易を認められた国として長崎(出島)での貿易で多額の銀を獲得し、それを明・清との貿易など、アジアでの活動の重要な資金とすることができたことも、オランダのアジア経営を有利にした。
なお、スペインもマゼラン隊の航海によって、フィリピン諸島を領有したが、マニラを拠点として、メキシコのアカプルコと中国を結び、銀と絹などの中国物産の交換で大きな利益をあげた。