奴隷制プランテーションと奴隷貿易
ヨーロッパ諸国では、17世紀中ごろ以降、アジアから輸入された茶やコーヒーの消費が急速に広がったことに刺激されて、カリブ海の英・仏領植民地を中心に砂糖の生産が激増した。砂糖プランテーションで使う黒人奴隷の大量供給が不可欠となり、ヨーロッパ各国がきそって西アフリカに拠点を求め、奴隷貿易に乗りだした。
奴隷制プランテーションと奴隷貿易
16世紀をつうじてスペインとポルトガルは、アジアばかりか西半球をも2分して支配した。これに対して、この地域でもイギリス・オランダ・フランスなどは、私拿捕などを利用して異議を唱えることになる。ポルトガル領となったブラジルで、すでに16世紀からアフリカ人奴隷による砂糖の生産がおこなわれた。西アフリカに多くの拠点をもったポルトガルにとっては、奴隷貿易そのものも重要な収入源となった。
私拿捕
私拿捕とは、政府から委任された民間の船舶が、敵国の船を襲撃し、捕獲する行為のことで、「私掠」ともいう。エリザベス1世(イングランド女王)などは、みずから出資し、スペインの銀船隊をねらわせた。その利益は莫大なものであった。私拿捕を実際におこなった人としては、ユグノーの指導者で、サン・バルテルミの虐殺の犠牲者コリニーやイギリスのジョン・ホーキンス(1532〜1595)、フランシス・ドレーク(1543頃〜1596)などが有名である。政府の特許状をもっていた点で、海賊とは区別されるが、実態はほとんど同じであった。16世紀後半にもっともさかんであったが、海軍の組織が整い、国際関係のルールも確立してくる18世紀後半には下火となった。19世紀中ごろ、国際会議で禁止された。
イギリスやフランスなどヨーロッパ諸国では、17世紀中ごろ以降、アジアなどから輸入された茶やコーヒーの消費が急速に広がった。これに刺激されて、カリブ海の英・仏領植民地を中心として砂糖の生産が激増したほか、北アメリカの植民地でもタバコや藍・綿花などの商品作物が大量に栽培されるようになった。
これらの生産には、はじめ先住民(インディオ)が使われていたが、彼らはアフリカやヨーロッパから新たにもちこまれた伝染病に抵抗力がなかったうえ、重労働を課せられたために、たちまちその人口が激減し、多くの部族が消滅してしまった。年季奉公人のかたちをとったヨーロッパからの白人の移民も、労働力としては人数に限界があった。
このため、砂糖プランテーションを中心に黒人奴隷が使われるようになり、その大量供給が不可欠となった。ヨーロッパ各国がきそって西アフリカに拠点を求め、奴隷貿易に乗りだしたのは、このためである。
ベニン王国(現ナイジェリア ベニンシティ)など、西アフリカ沿岸には、奥地の黒人を白人商人に売りわたす黒人国家が出現した。「中間航路」と呼ばれたアフリカからアメリカへの航海中に、すしづめのため病気になったり、不安から自殺する奴隷が多かったことと、アメリカ到着直後に気候やプランテーションの労働に順応できないことによる死者が多かったので、奴隷貿易の正確な規模は確定しにくい。しかし、19世紀にその貿易が廃止されるまでに大西洋を越えて運ばれた黒人奴隷数については、1000万〜4000万以上までという、いろいろな推計がなされており、少なくとも数千万人にはのぼったとみられている。
奴隷貿易によって、アフリカの社会は深刻な打撃をうけ、ポルトガル・イギリスなどこの貿易を大規模に展開したヨーロッパ各国には、大きな利潤がもたらされた。イギリスで世界で最初の産業革命がおこったのも、この貿易の利益があったからだという説もある。しかも、砂糖をはじめ奴隷が生産した商品によって、この時代のヨーロッパ人の生活様式は大きく変わった。
西インド諸島では、17〜18世紀にアフリカからの黒人奴隷による砂糖生産がおこなわれた。サトウキビをしぼり(正面)、液状にし(手前)、さらに煮たてている(手前左右)。図は17世紀、オランド領の島での作業風景を与えたもの。