列強の接近
18世紀後半は、世界史の新たな転換期であった。イギリスのピューリタン革命や名誉革命により市民革命を達成し、アメリカ独立宣言、フランス革命が始まるなど、欧米諸国では近代市民社会の発展が進んだ。産業革命も始まり、イギリス・フランスの世界的規模の植民地争奪戦が行われた。ロシアは、シベリア開発に取り組み、アメリカも19世紀になると西部の開拓を進めた。欧米列強の勢力は東アジアに接近し、ロシア船やイギリス船が日本近海に姿を現すようになり日本を取り巻く東アジアの秩序は動揺し始め、幕府は従来の外交体制の変更を迫られる重要な時期を迎えた。
列強の接近
18世紀後半は、世界史の新たな転換期であった。イギリスは17世紀半ばのピューリタン革命(1642〜49年)や名誉革命(1688年)により市民革命を達成し、アメリカは1776年に独立宣言を公布し、フランスでは1789年にフランス革命が始まるなど、欧米諸国では近代市民社会の発展が進んだ。また、産業革命も始まり、それを基盤としてイギリス・フランス両国の世界的な規模での植民地争奪戦が行われた。ロシアは、シベリア開発に積極的に取り組み、アメリカも19世紀になると西部の開拓を進め、太平洋岸に進出した。このように世界情勢の大きな変動が始まり、欧米列強の勢力はしだいに東アジアに接近し、ロシア船やイギリス船が日本近海に姿を現すようになった。日本を取り巻く東アジアの秩序は動揺し始め、幕府は従来の外交体制の変更を迫られる重要な時期を迎えた。
最初に日本と接触をもったのはロシアで、シベリア開発のため日本との通商関係の樹立をめざし、日本人漂流民を保渡して日本語の習得をはかった。皇帝(ツァーリ)エカチェリーナ2世(1729〜96)のもとで積極的な対外進出策をとり、その勢力は千島列島を南下し、1778(安永7)年、蝦夷地の厚岸で松前藩に通商を求め、翌年に松前藩が拒否する事件までおこった。
漂流民
江戸時代の早い時期から漂流民はいたが、朝鮮や中国沿海、南方の島々に漂着した場合、朝鮮の船やオランダ船で長崎に送還された。運よく帰還できても、キリスト教の信者となっていないかなど、厳しく取り調べられた。しかし、帰国できた漂流民がもたらした海外事情は貴重で、漂流記は写本のかたちで広まり、また、ロシア領に漂着し、女帝エカチェリーナ2世に謁見までした大黒屋光太夫から、桂川甫周が聴取して編纂した『北槎聞略』などは、重要なロシア研究書ともなった。中浜万次郎(ジョン万次郎)のように、アメリカで教育を受け、帰国したのちは幕府の通訳などになって活躍した者もいる。
ついで1792(寛政4)年には、アダム・ラクスマン(Laksman.1766〜1803?)がロシア使節として根室に来航し、漂流民で伊勢白子の船頭大黒屋光太夫(1751〜1828)らを日本に送還するとともに、通商を求めてきた。幕府は、外交交渉は長崎以外では行わないので長崎に行くように回答し、長崎港への入港許可証である信牌を与えた。同じ年に、外国船が日本近海を航行するという事件があったため、幕府は諸大名に海岸防備の強化を指示した。さらに、ラクスマンが交渉の場で、江戸に行きたいと強く要求したことが契機となって、江戸湾防備の必要性が認識され、松平定信自ら相模・伊豆の沿岸を検分するなど、新たな海岸防備策が模索され始めた。
ロシアの南下により、蝦夷地の処置が課題となった。幕府が直轄して開発する田沼時代の政策は、寛政の改革の開始とともに撤回されたが、1789(寛政元)年にクナシリ・メナシのアイヌが、場所請負商人による不正と搾取に抵抗して蜂起した事件(クナシリ・メナシの蜂起)は、幕府に大きな衝撃を与えた。寛政の改革では北国郡代 ❶ を新設して北方の防備にあたらせる計画が立てられたが、松平定信の老中辞職とともに実現しなかった。1796(寛政8)年から翌年にかけて、イギリス人ブロートン(Broughton 1762-1821)が蝦夷地の絵靭(室蘭)に来航し、日本近海の海図を作成するために測量する事件がおこった。これを契機に、幕府は1798(寛政10)年、近藤重蔵(1771〜1829)や最上徳内らに千島を探査させ、その翌年に東蝦夷地を直轄地とし、1802(享和2)年に箱館奉行を設けた。
1804(文化元)年、ロシア使節レザノフ(Rezanov 1764〜1807)がラクスマンのもち帰った信牌を携えて長崎に来航し、通商関係の樹立を求めた。幕府は、朝鮮・琉球・中国・オランダ以外とは新たに外交・通商関係をもたないのが祖法であると拒否した。このときの幕府の対応は、杉田玄白 ❷ や司馬江漢らが批判したほど冷淡であった。レザノフは、シベリア経由で帰国の途中、日本に通商を認めさせるには軍事的な圧力をかける必要があると軍人に示唆した結果、1806(文化3)年から翌年にかけてロシア軍艦が樺太や択捉を攻撃する事件(フヴォストフ事件)がおこった。とくに、択捉守備兵が敗走したことから国内は騒然とした雰囲気となった。
1807(文化4)年、幕府は松前・蝦夷地をすべて直轄にして松前奉行をおき、南部・津軽両藩を中心に東北諸藩に警備させた。樺太も直轄にしたがその周回すら不詳のため、1808(文化5)年から翌年にかけて幕府は間宮林蔵(1755-1844)らに探査を命じ、間宮は樺太が島であることを確認するとともに、対岸の沿海州に渡り、清(王朝)の役所があるデレンまで足を踏み入れた。ロシアとの緊張関係はなお続き、1811(文化8)年、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニン(Golovnin、1776〜1831)を捕え、箱館ついで松前に監禁した。ロシア側も1812(文化9)年、報復として択捉航路を開拓した淡路の商人高田屋嘉兵衛(1769〜1827)を捕えた。1813(文化10)年にゴローウニンを釈放してゴローウニン事件は解決し、ロシアとの緊張した関係は改善された。しかし、直轄した蝦夷地の経営が予期した成果をあげられず、幕府及び警備を命じられた東北諸藩に重い負担となったことなどから、幕府は1821(文政4)年に蝦夷地を松前家に返還した。
北方での緊張に加え幕府に衝撃を与えたのが、フェートン号事件である。1808(文化5)年、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質にとって、薪水・食糧を強要した。この事件で、長崎奉行の松平康英(1768〜1808)は責任をとって自害し、長崎警護の役を負っていた佐賀藩主は、警備怠慢の責任を問われ、処罰された。幕府はこれらの事件を受けて、1810(文化7)年、寛政の改革以来の懸案であった江戸湾の防備に着手し、白河・会津両藩に命じた。
ゴローウニン事件とフェートン号事件
ディアナ号艦長のゴローウニンは、世界周航の途中、国後島を測量中に幕府役人に捕えられ、2年3カ月間、箱館・松前に監禁された。ロシアも幕府御用商人高田屋嘉兵衛を捕えたが、ロシア側が1813(文化10)年、ロシア軍艦の蝦夷地襲撃はロシア政府の命令ではなく、出先の軍人が勝手に行ったものであるという文書を日本側に提出し、釈放された。ゴローウニンが著した『日本幽囚記』は、各国で翻訳され、日本に関する新たな知識を提供した。また、ナポレオン時代のフランスと戦っていたイギリスは、当時、フランスの属国となっていたオランダがアジア各地にもっていた拠点を奪おうとしており、その一環としてフェートン号がオランダ商館のある長崎港に侵入したのがこの事件である。いわばイギリスとフランスの戦争の余波であった。
その後もイギリス船は、1817(文化14)年、1818(文政元)年、1822(文政5)年に浦賀に来航し、1824(文政7)年には、常陸大津浜に上陸した捕鯨船員及び捕鯨船と交易を繰り返していた漁民を水戸藩が捕え、さらに同じ年、捕鯨船員が薩摩藩領宝島に上陸し、掠奪する事件もおこった。それまで幕府は外国船を穏便に扱い、薪水・食糧を与えて帰国させる方針をとっていたが、1825(文政8)年、異国船打払令(触書に「二念無く打払ひを心掛け」という文言があることから無二念打払令ともいう)を出し、日本沿岸に来航する外国船を撃退するよう命じた。この方針変更に大きな影響を与えたのは、幕府の天文方の高橋景保(1785-1829)で、来航するイギリス船は長期間の操業により食糧、薪水に欠乏した捕鯨船なので、威嚇すれば来なくなること、放置するとキリスト教布教の恐れがあることなどを説いた。外国船の来航を武力によって防止し、外国人と日本の民衆との接触を阻止しようとした政策であった。
欧米列強の勢力が日本近海に迫っているときに、この強硬策は、きわめて危険な政策であった。1837(天保8)年、外国船が浦賀に来航し、浦賀奉行所は異国船打払令にしたがって砲撃し、退去させた。翌年、オランダ商館長は、外国船はイギリス(実はアメリカの商船で誤って伝えた)のモリソン号で、漂流民の送還を兼ねて日本との通商を交渉する目的で来航したという情報を伝えた。漂流民を送還してきた外国船を、その来航の目的も問わずに打ち払ったことから、三河国田原藩家老で洋学者の渡辺崋山(1793〜1841)は『慎機論』を陸奥水沢出身の医師で洋学者の高野長英(1804〜50)は『戊戌夢物語』を書いて、日本を取り巻く国際情勢から、幕府の打払い政策を厳しく批判した。幕府は、1808(文化5)年の白河・会津両藩による江戸湾防備の体制をすでに廃止していたが、モリソン号事件を契機に再び江戸湾防備の検討を始めた。幕府は、洋学者で伊豆韮山代官の江川太郎左衛門(坦庵 1801〜55)と洋学に反感をもつ目付の烏居耀蔵(1796〜1873)に別々に調査と立案を命じた。この過程で生じた軋礫もあって鳥居らは尚歯会に集まる洋学者の弾圧に乗り出し、渡辺・高野らが無人島(小笠原諸島)への渡海を計画していたとして逮捕し、モリソン号事件に関する幕政批判の罪で、渡辺華山を国元での永蟄居、高野長英を永牢などに処した。これを蛮社の獄と呼んでいる。
蛮社の獄
事件の背景には、洋学の隆盛に対する林家を中心とする儒学者の反発・反感があった。幕府学問所の儒者や幕府役人のなかにすら、洋学を学びそれに親近感をもつ者が現れるはど、洋学が知識人の心をとらえ始めていた。幕府の文教政策を担い、幕政に重きをなしていた大学頭林述斎らは、この状況に反発した。目付の烏居耀蔵(林述斎の子)は、江川太郎左衛門(坦庵)と江戸湾防備策の立案を別々に命じられたが、この過程で江川と反目し、江川が渡辺華山に師事していたことから、洋学者の弾圧に乗り出した。最初は無人島(小笠原諸島)への渡海を企てたとデッチあげて崋山や高野長英を逮捕し、結局は証拠をあげられなかったが捜資の過程で『慎機論』などを押収し、幕政を批判した罪を問い、処罰した。
列強の接近と幕府の対応
徳川 | 列強の接近 | 元号 | 幕府の対応 | |||
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家治 | 1778〜79 | 露 | ナタリア号が、蝦夷地に来航 (通商を求めたが松前藩は拒否) | 天明 | 1783 | 工藤平助の『赤蝦夷風説考』の意見採用 |
1784 | 田沼意次による蝦夷地開拓を計画 | |||||
1786 | 最上徳内を蝦夷地へ派遣 | |||||
家斉 | 1792 | 使節ラクスマン根室に来航。漂流民(大黒屋光太夫ら)を伴い、エカチェリーナ2世の命で通商を要求 (幕府は通商を拒絶。長崎入港を許可する証明書〈信牌〉を渡し、帰国させる) | 寛政 | 1792 | 林子平が『三国通覧図説』『海国兵談』で海防を説いたことを幕府批判として処罰 | |
1798 | 近藤重蔵・最上徳内ら、択捉島を探査(「大日本恵土呂府」の標柱をたてる) | |||||
1799 | 東蝦夷地を直轄地とする | |||||
1800 | 伊能忠敬、蝦夷地を測量 | |||||
1804 | 使節レザノフ、長崎に来航 (通商を要求するが、幕府は拒絶) | 文化 ・ 文政 | 1806 | 文化の撫恤令(親水給与令) | ||
1807 | 松前藩と蝦夷地をすべて直轄(松前奉公の支配下のもとにおき、東北諸藩を警護にあたらせる)。近藤重蔵、西蝦夷地を探査 | |||||
1808 | 英 | フェートン号事件 (英軍艦フェートン号、長崎に侵入) | 1808 | 間宮林蔵、樺太とその対岸を探査(間宮海峡の発見) | ||
1810 | 白河・会津両藩が江戸湾防備を命じられる | |||||
1811 | 露 | ゴローウニン事件 (露軍艦長ゴローウニン、国後島に上陸して捕らえられ、函館・松前に監禁) | 1813 | 高田屋嘉兵衛の送還でゴローウニンを釈放 | ||
1821 | 蝦夷地を松前藩に還付 | |||||
1824 | 英 | 英船員、大津浜に上陸(常陸) 英船員、宝島に上陸(薩摩) | 1825 | 異国船打払令(無二念打払令) | ||
1828 | シーボルト事件 | |||||
家慶 | 1837 | 米 | モリソン号事件 (米船モリソン号、浦賀と山川で砲撃される) | 天保 | 1839 | 蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英らを処罰) |
1842〜42 | 英 | アヘン戦争 (清が英に敗れ、南京条約を締結) | 1842 | 天保の薪水給与令(異国船打払令を緩和) | ||
1846 | 米 | 米東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に来航 | 弘化 ・ 嘉永 | 1844 | オランダ国王開国勧告(幕府は拒絶) | |
家定 | 1853 | 米東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航。 | 1846 | ビッドルの通商要求拒絶 | ||
1853 | 露 | 使節プチャーチン、長崎に来航 | 1853 | 大船建造の禁を解く | ||
1854 | 日米和親条約・日露和親条約・日英和親条約締結 | |||||
1855 | 日蘭和親条約締結 |