戊辰戦争
箱館大戦争之図(歌川芳虎画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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戊辰戦争

新政府が徳川慶喜を政権に加えず、彼に対して、辞官納地を要求したことは旧幕臣や会津・桑名両藩士たちを著しく憤激させた。いったん大坂に引きあげた慶喜は、1868(明治元)年1月、旧幕兵や会津・桑名の藩兵を率いて上京しようとし、これを迎え撃った薩長両藩を中心とする新政府軍(「官軍」)との間に鳥羽・伏見の戦いがおこり、ここに戊辰戦争が始まった。

戊辰戦争

新政府が徳川慶喜とくがわよしのぶを政権に加えず、彼に対して、辞官納地を要求したことは旧幕臣や会津・桑名両藩士たちを著しく憤激させた。いったん大坂に引きあげた慶喜は、1868(明治元)年1月、旧幕兵や会津・桑名の藩兵を率いて上京しようとし、これを迎え撃った薩長両藩を中心とする新政府軍(「官軍」)との間に鳥羽・伏見の戦いがおこり、ここに戊辰戦争 が始まった。鳥羽・伏見の戦いで勝利を収めた新政府軍は、江戸へ引きあげた慶喜を「朝敵」として征討の軍をおこし、各地で旧幕府側の勢力を打ち破り、江戸に攻め下った。すでに戦意を失っていた慶喜は恭順の意を示し、同年4月、新政府軍は戦うことなく江戸城を接収した。

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戊辰戦争地図 ©世界の歴史まっぷ

江戸城明け渡し

江戸城無血接収の交渉は、1868(明治元)年3月、新政府側を代表する西郷隆盛と旧幕府側を代表する勝海舟の間で行われた。舞台裏にあって、その斡旋につとめたのは、イギリス公使パ一クスと彼の片腕といわれたアーネスト=サトウ( ErnestSatow, 1843〜1929)であった。パ一クスは全面的な内乱が広がって貿易の発展に悪影響を及ぼすことを警戒して、新政府軍の江戸武力攻撃に反対していた。初め江戸城総攻撃を決意していた西郷も、パ一クスの意向を知って態度を軟化させたという。勝は西郷との会談で、インドや清国の例をあげて、内戦の拡大が国家の独立を危うくすることを説き、平和のうちに江戸城を明け渡すことで、両者の話し合いが合意に達し、新政府軍と旧幕府軍の全面的な武力衝突は回避されたのである。なお、旧幕府側でこれを不服とする彰義隊しょうぎたいがあくまで抗戦を主張して、上野に立てこもったが、同年5月、大村益次郎おおむらますじろう(1824〜69)の指揮する新政府軍によって1日で鎮圧された。

しかし、会津藩はなお新政府に抵抗する姿勢を示し、仙台藩など東北諸藩も奥羽越列藩同盟おううえつれっぱんどうめいを結成して会津藩を支援した。新政府軍はこれを攻撃し、激戦の末、同年9月会津藩を降伏させて東北地方を平定した。さらに翌1869(明治2)年5月には、旧幕府の海軍を率いて箱館の五稜郭ごりょうかくに立てこもり抗戦を統けていた榎本武揚えのもとたけあきらも降伏し、ここに戊辰戦争は終わりを告げ、新政府のもとに国内統ーがひとまず達成された。

二百数十年に及ぶ江戸幕府の支配を打倒した戊辰戦争が、長期にわたる全面的な内戦におちいることなく、比較的短期間で収拾されたのは、欧米列強によって加えられた外圧に対して強い対外危機意識が生まれ、新政府側も旧幕府側もともに、国家の独立を守り、植民地化の危機を避けようとする姿勢をもっていたからであろう。上に述べた西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城の談判は、そのことをよく表している。

なお、ほぼ同時代に世界でおこった出来事を比べると、アメリカの南北戦争(1861〜65)では死者約62万人、フランスのパリ=コミューン事件(1871)では1週間の市街戦で約3万人の死者がでたという。それと比較すると、表のように戊辰戦争の死者は約8000人で、その流血は小規模であった。

戊辰戦争の死者数

新政府側薩摩藩 514人
長州藩 247人
3550人
旧幕府側会津藩 2557人
(含女子194人)
1690人
合計8240人
『明治史要・付表』による
戊辰戦争:戦争が始まった慶応4(明治元)年が干支でいうと戊辰の年になるので、戊辰戦争と呼ばれた。

相楽総三と「偽官軍」

江戸出身の尊攘派志士相楽総三さがらそうぞう(1839〜68)は、西郷隆盛の指示により、赤報隊せきほうたいを結成して戊辰戦争に際し新政府軍の先鋒となって活躍した。相楽は旧幕領の年貢半減を建白して新政府に認められたとして、年貢半減を旗印に進軍し、民衆の「世直し」気運を高めた。しかし、財政難に苦しむ新政府はこれを否定し、1868(明治元)年3月、相楽ー派は「偽官軍」として処刑され、赤報隊も解散させられた。

会津藩の明治維新

会津藩主松平容保まつだいらかたもりは、1862(文久2)年、幕府により京都守護職に任じられ、会津藩士を率いて上京した。そして配下の新撰組などを使って尊王攘夷派・倒幕派の活動を取り締まるなど、京都の治安維持にあたった。そのため幕府が倒れて新政府が成立すると、会津藩は目の敵にされ、容保は朝廷に謝罪したが赦されず、武力討伐を受ける羽目となった。1868(明治元)年8月、会津鶴ガ城に立てこもった会津藩士たちは、圧倒的に優勢な新政府軍の進攻を受けて戦いを開始した。しかし、会津藩を支援していた奥羽越列藩同盟の諸藩はつぎつぎに新政府に降伏し、孤立無援となった会津藩も約1カ月の激しい戦闘の末、同年9月、新政府の軍門に降った。激烈な戦いのなかで、白虎隊の少年隊士(16〜17歳)たちや藩士の家族の女性たちの集団自決など、多くの悲劇が生まれている。約8000人に及ぶ戊辰戦争の死者のうち、ほぼ3分の1が会津藩の人々であった。

敗戦の結果、会津藩は28万石の領地を失ったが、翌69(明治2)年11月、容保の子容大たかはるが下北半島の斗南となみに領地を得て、再興を許された。斗南藩の領地は3万石といわれたが、大半は不毛の荒野で実高は7000石程度にすぎず、藩士たちの生活は苦しかった。彼らのなかには、新天地を求めて北海道に渡って開拓に従事したり、アメリカに移民した者も少なくなかった。また新政府は旧幕府側からも、優れた人材をしきりに登用したので、会津藩出身者のなかにも、新政府に入って外交官や軍人として、高い地位についた者もあった。

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