58.帝国主義列強の展開
- 1. 帝国主義の形成期〜世界制作の衝突、イギリスとフランスの動向
- 2. ドイツ・ロシア・アメリカの動向
58.帝国主義列強の展開
1. 帝国主義の形成期〜世界制作の衝突、イギリスとフランスの動向
イギリス
19世紀半ば以降イギリスは、圧倒的な経済力・海軍力の優越を背景に世界各地に自由貿易を推し進めた。そのため国内では、植民地不要論も唱えられたが、イギリスの植民地はこれ以降も拡大した。1870年代以降、世界的な不況や他の工業国との競合に直面すると、保守党のディズレーリ内閣はスエズ運河会社株式を買収したり、ロシア=トルコ戦争に干渉するなど、帝国主義政策を進めた。植民相ジョセフ=チェンバレンは国内の社会問題解決には植民地の開発が必要と考え、南アフリカ戦争を指導した。イギリスの社会主義者たちの間では労働者の政党をつくろうという動きが高まり、1900年に労働代表委員会ができ、1906年には労働党となり、議会をつうじて社会主義の実現をはかろうとした。1911年には議会法が制定され、下院の優位が定められた。また自由党内閣のもと、アイルランドに対して1914年にアイルランド自治法が成立した。しかし第一次世界大戦の勃発を理由に政府がその実施を延長したため、アイルランドの独立を主張するシン=フェイン党などは反発し、1916年に武装蜂起(イースター蜂起)をおこしたが鎮圧された。
フランス
フランスはプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)の打撃もあって工業生産の発展はにぶり、ドイツやアメリカに追い抜かれたが、資本力が強く、銀行は海外投資により利益をあげた。1880年代からは海外侵略を強めインドシナやアフリカに大植民地をつくりあげた。第三共和政下の国内政治は、保守派と共和派の対立が激しく不安定であった。1889年に対独復讐を主張するブーランジェのクーデタ計画があり、また1894年からのドレフュス事件をめぐって世論が二分され激しく対立した。他方、労働運動では、労働組合のゼネストによって一挙に社会革命の実現をめざすサンディカリズムが現れた。しかし、1905年にフランス社会党が成立して、この動きをおさえた。
2. ドイツ・ロシア・アメリカの動向
ドイツ
ドイツの資本主義の発展はめざましく、独占資本主義が急速に発展した。宰相ビスマルクは1890年、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) との意見の対立で辞職し、以後、皇帝が親政し、「世界政策」の名のもとに強引な帝国主義政策をとった。ドイツ社会民主党はビスマルク時代に、社会主義者鎮圧法によって活動がおさえられたが、1890年に同法が廃止されてからは急速に発展し、1912年に議会第一党となって他国の社会主義政党の模範となった。また党内では、議会主義による社会改良を主張するベルンシュタインらの修正主義が大きな影響力をもった。
ロシア
ロシアでは1890年以降、フランス資本の援助もあり重工業がおこったが、国民の多くは貧しく、国内市場が狭いためアジアへの進出をはかり、1891年にはシベリア鉄道の建設に着手した。工場労働者を基盤にマルクス主義運動が高まり、レーニンやプレハーノフらによるロシア社会民主労働党が結成された。ロシア社会民主労働党は創設直後ボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂した。またナロードニキの流れをくむ社会革命党資本家による立憲民主党など、政党の結成があいついだ。こうして、ロシアの政治・社会改革をもとめるさまざまな政治潮流が出現した。
アメリカ
19世紀末に世界第1位の工業国となったアメリカでは、巨大企業の登場によって自由競争が後退する一方、東欧・南欧からの移民の大量流入による都市の貧困問題などが表面化していた。そのため20世紀初めの政権は、独占の規制や労働条件の改善など革新主義とよばれた諸改革を実施する一方で、西部でフロンティアが消滅するにつれ、海外への進出をめざす帝国主義政策をもとめる声も高まっていった。共和党のマッキンリー大統領のときアメリカ=スペイン戦争によってフィリピン・グアム島を領有し、1899年には国務長官ジョン=ヘイが中国への門戸開放宣言を発表した。1901年に大統領になった共和党のセオドア=ローズヴェルトは革新主義の立場をとり、反トラスト法を発動して社会改革につとめた。一方、対外的には中南米諸国にたびたび武力干渉を行い(棍棒外交)、パナマ運河建設に着手するなど、積極的なカリブ海政策を推進した。また1913年に大統領になった民主党のウィルソン大統領は「新しい自由」をかかげ、反トラスト法を強化して大企業のゆきすぎを抑え、関税の引き下げや労働者保護立法などのそ改革を実行した。