ドイツ
第一次大戦に敗戦したドイツでは、ヴァイマル共和国が成立したが、保守派やナチスなどの国粋主義者が早くから反共和国行動や批判をくりかえし、共産党も共和国打倒の革命蜂起をおこなった。フランスとベルギーのルール占拠に不服従運動で抵抗し、記録的な通貨インフレに陥った。
ドイツ
ドイツでは敗戦後、兵士・労働者の革命組織(レーテ) Räte を支援して、民主化と急進的社会改革推進を要求する共産党などの左派と、保守的市民層や軍部・経済界と結んで、革命を政治改革に止め、講和交渉や平時体制への移行を優先する社会民主党臨時政府との間で激しい対立がおこった。共産党ら左派の蜂起は1919年前半には武力で制圧され、ローザ=ルクセンブルク Rosa Luxemburg (1871〜1919)・カール=リープクネヒト Karl Liebknecht (1871〜1919)ら党指導者が殺害された。(スパルタクス団の蜂起)
19年初め、男女普通選挙権のもとでおこなわれた憲法制定国民議会が中部ドイツのヴァイマルで開催され、社会民主党のエーベルト Ebert (1871〜1925)を大統領に選出し、憲法を制定した。開催地の名から、成立した共和国はヴァイマル共和国、その憲法はヴァイマル憲法と呼ばれている。ヴァイマル憲法は国民の徹底した参政権など公民権の保障のみならず、生存権・労働権の保障、青少年・家族の保護など福祉国家の基本的枠組みとなる要素をとりいれ、当時もっとも民主的な憲法と評された。国会の混乱や非常事態への対応のために、大統領に緊急立法権(憲法第48条)を含む強い権限を与えていたが、この権限はのちに憲法の趣旨と相反する大統領独裁への道を開くために使われた。
しかし内政面では、敗戦とヴェルサイユ条約を共和国の責任とする保守派やナチスなどの国粋主義者が早くから反共和国行動や批判をくりかえし、共産党もまた共和国打倒の革命蜂起を企て ❶ 、1923年秋の危機には、ヒトラーがミュンヘンでナチ党を率いて反共和国武装蜂起(ヒトラー一揆)をおこすなど、左右政治勢力の対立がおさまらなかった。経済面でも戦後インフレが昂進して、国民の生活基盤を動揺させ、さらにルール占拠の際には、ドイツは占領軍への不服従運動(消極的抵抗)で抵抗し、その費用を負担したため、1923年秋には、1ドル=4兆2千億マルクの交換比率となる記録的な通貨インフレに陥った。こうした経済の混乱は、23年秋のレンテンマルク(臨時通貨)の採用、24年のドーズ案のうけ入れとアメリカからの資本導入によって、24年以降一時的に収束したが、それは共和国の支持基盤の拡大にはつながらなかった。1925年エーベルト大統領が死去すると、後任には大戦中の参謀総長で帝政主義的心情をもつ高齢のヒンデンブルク Hindenburg (1847〜1934)が選出され、国民のなかにある深い政治的亀裂を明らかにした。29年、世界恐慌によってアメリカ資本が引き上げられると、アメリカ資本に依存するドイツ経済は破滅的状況になり、政治社会的混迷が加速して国会も機能不全状態に陥った。