米騒動の勃発
1918(大正7)年に入り、米価が急上昇して庶民の生活が脅かされると、各地で米商人・富商・精米会社などを襲って警官隊と衝突するなど、米騒動がおこった。米騒動は自然発生的で組織的なものではなく、一定の政治的目標もなかったが、規模はこれまでになく大きく、日本の社会に大きな衝撃を与えた。
米騒動の勃発
第一次世界大戦の好景気で、農村の過剰人口は都市産業に吸収され、農産物価格も上昇して農家の収入は増大した。しかし、同時に生活必需品の物価も上がったので、収入が増加した割りには農家の家計は楽にならなかった。
都市でも、大戦景気による成金が生まれ、労働者の賃金もかなり上昇した。反面、大戦による経済の発展で、工業労働者の増加と人口の都市集中は米の消費量を増大させ、地主制のもとでの農業生産の停滞もあり、インフレ傾向が続き、物価も相当に高騰したため、庶民の生活は楽ではなかった。大戦が長びくと、軍用米の需要が増えたこともあって、1917(大正6)年ころから米価はしだいに上昇し始めた。とくに1918(大正7)年に入ると、米価は急上昇し、庶民の生活は脅かされた。
同年7月、富山県の漁村の主婦たちが米価の高騰を阻止しようと運動を始めた。この運動はたちまち全国に広がり、8月には大都市をはじめ、各地で米商人や精米会社が群衆に襲撃されるなど米騒動がおこった。政府は外米の輸入や米の安売りを行うと同時に、軍隊まで出してその鎖圧にあたり、1カ月余りののち、ようやく米騒動は収まった。しかし、寺内内閣は世論の激しい非難のなかで、同年9月に退陣した。
米価上昇と米騒動
米騒動は庶民の生活に根ざした自然発生的な事件であり、その原因は何といっても米価の急上昇であった。1916(大正5)年8月、1石(約150kg)当り13円62銭だった東京正米平均相場はじりじりと上がり、1918(大正7)年1月には、23円84銭となった。その後シベリア出兵をあてこんだ商人の買占めや売惜しみも噂され、同年8月には38円70銭と2年前のほぼ3倍という高騰を示し、小売価格は1升(約1.5kg)50銭を超えた。同年7月下旬、富山県魚津町の漁民の女性たちが海岸に集まって米の県外移出を阻止しようとしたのがきっかけで、8月に入ると周囲の町でも米の移出禁止や安売りを求める運動がおこった。これが「越中女一揆」として新聞でやや大袈裟に全国に報道されると、8月中旬以降、京都・名古屋・東京・大阪などの大都市をはじめ、各地で米の安売りを求めるデモ行進が行われ、群衆が米商人・富商・精米会社などを襲って警官隊と衝突するなど、騒動がおこった。神戸では、米の買占めで米価をつり上げたと噂された有力商社の鈴木商店が群衆に襲われ、焼打ちにあった。
米騒動の範囲は、42道府県・38市・153町・177村に及び参加人員は約70万人、検挙者は2万数千人と推定され、約7800人が起訴された。起訴された者の大半は未組織の下層労働者であった。なお、同年夏の全国中等学校優勝野球大会(現、全国高等学校野球選手権大会)は、米騒動のため中止となった。米騒動は自然発生的で組織的なものではなく、一定の政治的目標もなかったが、規模はこれまでになく大きく、日本の社会に大きな衝撃を与えた。