政党政治の展開
加藤高明内閣から犬養内閣の崩壊にいたる8年足らずの間、政党政治は「憲政常道」となり、衆議院に勢力を占める政党の党首が内閣を組織するという慣習ができあがった。普選が実施され有権者が拡大すると必然的に多額の選挙資金が必要となり、財界と結びつきしばしば汚職問題をひきおこした。
政党政治の展開
加藤高明内閣の成立から、1932(昭和7)年5月の犬養内閣の崩壊にいたる8年足らずの間、政党政治は「憲政の常道」となり、衆議院に勢力を占める政党の党首が内閣を組織するという慣習ができあがった。1925(大正14)年に立憲政友会は、退役した陸軍長老で長州閥の系統につながる田中義一(1864〜1929)を高橋是清にかわって新総裁に迎えるとともに、革新倶楽部と合同した。ー方、憲政会は加藤の死後、大蔵官僚出身の政治家若槻礼次郎が総裁となり、1927(昭和2)年6月に政友本党と合同して立憲民政党を結成し、立憲政友会とともに2大政党として交代で政権を担当した。
しかし、軍部・貴族院・枢密院などの政党外の権力機構は依然として大きな力をもち、政党政治はしばしば議会の外からの干渉を受けた。しかも、政党自身も、自党の党勢拡張や政争のために、これら外部の権力機構に頼り、高級官僚出身者や軍人出身者が党の幹部となることが多かった。政党政治とはいっても、総選挙によって衆議院で多数を占めた野党が、敗れた与党にかわって内閣を組織するというかたちで政権交代が行われたことはあまりなく、議会外の権力機構と結んで内閣を倒した野党が、新しく少数与党のまま政権を担当し、総選挙を行って衆議院の多数を制するというのが、政権交代の基本的パターンであった。
普選が実施され有権者が拡大したことによって、政党政治の裾野は広がったが、同時に政党は必然的に多額の選挙資金を必要とするようになった。その結果、財界との結びつきをますます深くし、財閥から多額の政治資金の供給をあおぎ、また、さまざまな利権をめぐってしばしば汚職問題をひきおこした。こうして、政党政治は全盛時代を迎えたが、同時に、それが「金権政治」に毒されているというマイナス=イメージも強くなり、国民の不信をかった。こうした事情を背景として、軍部・官僚・国家主義団体など反政党勢力による、「政党政治の腐敗」に対する非難も盛んになり、政党政治打倒を目指す動きも活発となった。
吉野作造の「金権政治」批判
かつて、民本主義を唱え、普通選挙の実現や議会中心の政治運営を熱心に主張した吉野作造も、現実に政党政治が定着し、普選が実施されるとかえってそれに失望し、その「金権選挙」ぶりをつぎのように批判している。
「私も大正の初め頃から熱心に普選制の実施を主張した一人だ。そして普選制の功徳くどくの一つとして金を使はなくなるだらうことを挙げた。(中略)そして金が姿を消すとこれに代わり選挙闘争の武器として登場するのは、言論と人格との外にはないと説いたのであった。(中略)しかしそれは制度を改めただけで実現せられうる事柄ではなかったのだ。今日となっては選挙界から金が姿を消せばその跡に直ちに人格と言論とが登場するとの見解をも取消す必要を認めて居るが、普選制になって金の跋扈ばっこが減ったかと詰問きつもんされると一言もない。(中略)今日の選挙界で一番つよく物言ふものは金力と権力である。選挙は人民の意嚮いこうを訪ねるのだといふ、理想としては彼らの自由な判断を求めたいのである。(中略)それを金と権とでふみにじるのだから堪たまらない。しかし、これは政治的に言へばふみにじる者が悪いのではない。ふみにじられる者が悪いのだ。(中略)一言にしていへば罪は選挙民にある。問題の根本的解決は選挙民の道徳的覚醒を措おいて外にはない」(「中央公論」1932年6月号)
吉野はこのように、「金権政治」による政治的腐敗の根本的な責任は、選挙民にあるとして、その「道徳覚醒」を強く主張したのである。