協調外交の行き詰まり
1930(昭和5)年、英・米・日・仏・伊の5カ国の代表によりロンドン海軍軍縮会議が開かれ、米・英・日の3カ国の間にロンドン海軍軍縮条約を結ぶと、日本海軍の強硬派は統帥権干犯として軍縮条約反対の声をあげた。浜口内閣は反対論を押し切って天皇による条約の批准を実現したが、国家主義団体の青年によって東京駅頭で狙撃されて重傷を負い(31年8月死去)、1931年4月、内閣は総辞職した。
協調外交の行き詰まり
田中内閣のあとを受けた立憲民政党の浜口雄幸(1870〜1931)内閤は、再び幣原外相を起用して協調外交の方針を打ち出した。1930(昭和5)年、イギリスの提唱によって英・米・日・仏・伊の5カ国の代表によりロンドン海軍軍縮会議が開かれることになると、政府は若槻礼次郎元首相・財部彪(1867〜1949)海相らを全権として派遣した。
そして同年4月、米・英・日の3カ国の間にロンドン海軍軍縮条約を結び、(1)主力艦建造禁止をさらに5ケ年延長すること、(2)米・英・日の補助艦の保有比率は、全体で10:10:7とし、大型巡洋艦は10:10:6とすること、(3)潜水艦保有量は3カ国とも5万2700トンとすること、などを取り決めた。
ところが、かねてから対米7割の保有量を主張していた海軍部内では、政府が海軍軍令部の反対をおさえてこの条約に調印したため、加藤寛治(1870〜1939)軍令部長ら海軍の強硬派(いわゆる艦隊派)が、これを統帥権干犯として激しく非難し、軍縮条約反対の声をあげた。野党の立憲政友会強硬派・国家主義団体ら、浜口内閣の協調外交・軍縮政策に不満をいだいた勢力の間からも、これに同調する動きがおこった。浜口内閣は反対論を押し切って天皇による条約の批准を実現したが、これがもとで、浜口首相は、同年11月、国家主義団体の青年によって東京駅頭で狙撃されて重傷を負い(31年8月死去)、1931年4月、内閣は総辞職した。
この間、満蒙問題などをめぐって、対中国外交においても困難な問題が山積していたが、1930(昭和5)年に日本は日中関税協定を結び、中国に関税自主権を認めた。しかし、幣原外交は権益回収をめざす中国の国民政府の強い外交方針(いわゆる革命外交)と日本国内の反対派からの「軟弱外交」という非難に挟撃されて、しだいに行き詰まっていった。
統帥権干犯問題
統帥権とは一般に軍隊の作戦・用兵権などを指し、天皇大権と定められていた(憲法第11条)。それは陸海軍の総帥機関(参謀本部・海軍軍令部)の補佐のもとに発動され、政府も介入できない慣行になっていた(統帥権の独立)。しかし、兵力量の決定はいわゆる天皇の編制大権であり(憲法第12条)、内閣(国務大臣)の輔弼事項と考えられていた。ところが海軍軍令部など軍縮条約反対派は総帥権を拡大解釈し、兵力量の決定も統帥権と深く関係するものとして、浜口内閣が海軍軍令部の意に反して軍縮条約に調印したのは統帥権を犯したものだと攻撃したのである。その後、軍部はしばしば「統帥権の独立」を理由に軍事問題に対する政府の介入を拒否し、政府の統制を離れて行動するようになった。