李鴻章
李鴻章(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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李鴻章 りこうしょう A.D.1823〜A.D.1901
清末の政治家。淮軍を率いて太平天国や捻軍鎮圧に活躍。軍事力を背景に清の実権を握り洋務運動を主導。中国の外交を担い、日清戦争でも下関条約の全権を務めた。1896年に露清秘密条約を結び義和団事件後に全権として辛丑和約に調印した。

李鴻章

清末の政治家。淮軍わいぐんを率いて太平天国や捻軍ねんぐん鎮圧に活躍した。軍事力を背景に清朝の実権を握り、洋務運動を主導した。中国の外交を担い、日清戦争でも下関条約の全権を務めた。その後政界から身を引いたが、1896年に露清秘密条約を結び、義和団事件後に全権として辛丑和約しんちゅうわやくに調印した。

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清の政治家。北洋艦隊を組織。近代化(洋務運動)に努め、皇帝から全権を委任された北洋大臣や北京の直隷総督もつとめ、天津条約・下関条約の締結など、対日問題に対処した。

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太平天国は鎮圧するも日清戦争で敗北

科挙に合格後、太平天国の乱が拡大すると、曾国藩そうこくはんに義勇軍(団練)組織を命じられた。李鴻章は地元安徽省あんきしょうで組織した「淮軍わいぐん」を率い、太平軍を撃滅した。続いて起こった農民の反乱(捻軍ねんぐんの乱)では、曽国藩に代わって担当大臣に就いて鎮圧。清朝の政権中枢に入り込んだ。アヘン戦争アロー戦争の敗北で、清の後進性を痛感していた李は、西洋の軍事技術を導入して兵器工場を建設。それに伴い、鉱山開発、鉄道敷設ふせつも進め、これらは「洋務運動ようむうんどう」と呼ばれた。

同治帝どうちていの摂政として西大后が実権を握るなか、李は直隷総督兼北洋大臣を通算25年務めた。表面的には政治が安定して「同治の中輿ちゅうこう」と称されたが、台湾、琉球、朝鮮との対応では予断の許さない状況が続いた。そして清の近代化は、儒学を中心とする伝統的な思想に基づいたまま(中体西用ちゅうたいせいよう)であったため、真の富国強兵は実現せず、日清戦争でも敗北。李は責任をとって政界から退いた。後に、義和団の乱で清朝が列国に敗れると、その講和交渉にもあたったが、調印後に死去した。

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李鴻章が登場する作品

明成皇后

明成皇后
明成皇后(画像出典:明成皇后


楽天TVでも観ることができます。 明成皇后

アジア諸地域の動揺

東アジアの激動

太平天国の興亡
常勝軍 捻軍 19世紀半ばの東アジア地図 太平天国の興亡
19世紀半ばの東アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

太平天国は、1854〜55年の全盛期には300万人を数えたといわれ、華北や長江上流に軍を進めたが、天京政府首脳部の内紛によって衰えはじめ 、一方、清朝側では、漢人官僚が郷里で組織した地主階級を中核とする義勇軍(郷勇きょうゆう)が各地で結成され、弱体な清朝正規軍(八旗・緑営)にかわって、太平軍と激戦を展開するようになった。曾国藩そうこくはん(1811〜72)の率いる湘軍しょうぐん(湖南省)、李鴻章(1823〜1901)の率いる淮軍わいぐん安徽あんき省)、左宗棠さそうとうの率いる楚軍(湖南省)などが代表的な郷勇である。

太平天国の動乱は、清朝政府や正規軍の無力ぶりを明るみにだし、曾国藩や李鴻章ら、反乱平定に活躍した漢人官僚が政治の中枢に進出するきっかけとなった。また反乱平定に際して、地方長官(総督・巡撫)に地方の軍事・行政・財政権をゆだねることは、清末以降の中国の政局の一大特色をなす地方分権への道を開くものであった。巨大な民族運動としての太平天国は、孫文や毛沢東など、その後の民族運動・革命運動に大きな影響を与え、その原点としての位置を占めるものとなった。

洋務運動

アロー戦争後の清朝では、幼年の同治帝どうちてい(位1861〜74)にかわって、叔父の恭親王奕訢きょうしんのうえききん(1832〜98, 初代総理衙門長官も務める)が朝廷の中心となり、従来の排外主義を転換した。そのため外国との和親や西欧の進んだ技術の摂取と、近代産業の育成と富国強兵による国家体制の再建がはかられた。このような試みを洋務運動という。洋務運動を主導したのは、太平天国の平定に活躍した曾国藩そうこくはん李鴻章りこうしょう左宗棠さそうとう張之洞ちょうしどう(1837〜1909)らの漢人官僚であり、彼らは富国強兵をめざして、西洋の学問や技術を導入した。主な事業としては、軍需産業を中心とする近代的兵器工場の設立 、海軍の創建(李鴻章の北洋艦隊ほくようかんたい 、左宗棠の福建艦隊など)、紡績工場・汽船会社の設立、電信事業、鉱山の開発、鉄道の敷設、外国語学校の設立などが推進された。洋務運動が推進された同治年間は、列強の進出も一段落して、内外ともに一時的な安定がもたらされたので、この時期を同治中興と呼んでいる。しかし洋務運動は、「中体西用ちゅうたいせいよう」をモットーとするように、中国の伝統的道徳倫理を根本としながら、西洋の科学技術を利用するものであって、政治体制の改革や中国社会全体の近代化をめざすものではなかった。

また、近代産業の導入も国家・官僚の主導でおこなわれたため、設立された官営または半官半民の企業は、営業独占権など強力な特権をもち、かえって民間企業の成長を阻害する結果となった。そのうえ官僚と企業の結びつきは、洋務運動が官僚個人の私的蓄財に利用されるという側面をもつことになった。こうしたことから、洋務運動は十分な成果をあげえず、やがて清仏戦争(1884〜85)と日清戦争(1894〜95)の敗戦によって挫折に追いこまれた

近代的兵器工場:李鴻章による上海の江南製造総局(軍需工場)、左宗棠による福州船政局(造船所)、張之洞による大冶だいや鉄山・漢陽鉄廠かんようてつしょう(のちの漢冶萍公司かんやひょうコンス)などが代表的なものである。

北洋艦隊:李鴻章が洋務運動の時期に、淮軍を基盤として建設した近代的な海軍。

洋務運動の挫折:清仏戦争では福建艦隊が、日清戦争では北洋艦隊が壊滅し、洋務運動の象徴であった海軍は無に帰した。

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