モンゴル帝国の成立 モンゴル帝国の最大領域地図
モンゴル帝国の最大領域地図 ©世界の歴史まっぷ
モンゴル帝国の成立 モンゴル帝国の最大領域地図
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  • 投稿日 2018-03-03
  • 最終更新日時 2020-05-26

モンゴル帝国の最大領域地図

モンゴル帝国の最大領域地図

地名:チンギス・ハンの時代の遠征路(1219〜25年), バトゥの西征路(1236年〜42年), クビライ・ハン時代の遠征路(1260年〜94年), モンゴル帝国の最大領域, アラビア, ミャンマー, ロシア, ブルカン山, ウイグル, ボルネオ, スマトラ, スリランカ, 流求, チベット(吐蕃), モンゴル高原, ポーランド, ハンガリー, イルハン国, チャガタイ・ハン国, キプチャク・ハン国, 元, 陳朝(大越), スコータイ朝, 高麗, 日本, デリー・ルスターン朝, 東ローマ帝国, マムルーク朝, 占城, アンコール朝, メッカ, コンスタンティノープル, エルサレム, カイロ, モスクワ, キエフ, サライ, アンカラ, バグダード, イスファハーン, ホムルズ, デリー, ブラハ, サマルカンド, アルマリク, エミール, 瓊州, 福州, 揚州, 成都, 汴梁, 大理, 甘州, 沙州, 大都, 奉元(長安), 上都, 遼陽, ヌルカン, ブルネイ, 明州(寧波), ラサ, 泉州, 広州, 重慶, 景徳鎮, 杭州, 開城, 京都, 鎌倉, 大宰府, カラコルム, タブリ―ズ, ヴェネツィア, インダス川, 六盤山, ワールシュタットの戦い, 崖山の戦い, カルカ河畔の戦い, アラビア海, 黒海, 地中海, 太平洋, ベンガル湾, カスピ海, シル川, イリ川, 黒竜江, オノン川, オルコン川, バイカル湖, 黄河, 長江, ガンジス川, アム川, ナイル川

モンゴル帝国の最大領域地図
モンゴル帝国の最大領域地図 ©世界の歴史まっぷ

凡例

チンギス・ハン時代の遠征路 1219年〜1225年
チンギス=ハンの西征

ホラズム地方を中心として1077年に成立したホラズム・シャー朝は、ほぼモンゴル帝国と同時期に急成長し、西アジア最強の帝国となっていた。
1219年、モンゴル高原を弟のテムゲ・オッチギンに任せ、チンギス=ハンはホラズム・シャー朝へ侵攻した。
1221年、インダス河畔の戦い: ホラズム・シャー朝スルタン・ジャラールッディーンとその配下の軍と、チンギス=ハン率いるモンゴル帝国軍の戦闘。モンゴル帝国が勝利した。
1221年、パルワーンの戦い: ジャラールッディーン率いるホラズム・シャー朝軍とシギ・クトク率いるモンゴル帝国軍の戦闘。モンゴル帝国軍は大敗した。
1223年、カルカ河畔の戦い: ジェベ、スブタイ両将軍率いるモンゴル帝国軍とポロヴェツ・ルーシ連合軍の戦闘。モンゴル帝国軍は圧勝した。
1223年、サマラ屈曲部の戦い(ケルネクの戦い): ジェベ、スブタイ両将軍率いるモンゴル帝国軍と ヴォルガ・ブルガールの戦闘。モンゴル帝国軍は大敗した。
1222年夏、チンギス=ハンはこの方面の作戦に見切りをつけ、本拠地たるモンゴル高原への撤退を始めていた。全軍はゆっくりと進み、途中でスベエデイ率いる別働隊(ジェベは帰還途上で病没)と合流し、1225年にモンゴル高原へ帰還した。

バトゥの西征路 1236年〜1246年
キプチャク・ハン国

モンゴル帝国を興すにあたって、チンギス=ハンは長男ジョチにアルタイ山脈方面に4個の千人隊からなるウルスを与え、イルティシュ川流域に遊牧させたのがジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国とほぼ同じ領域とされる)の起源である。ジョチの次男バトゥが家長となり南シベリアから黒海北岸に至る諸地方の征服の任を受け継いだ。
1235年、モンゴル帝国第2代皇帝オゴタイ=ハンはバトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍を派遣し、バトゥはヴォルガ中流域のブルガール、草原地帯のキプチャクなどのテュルク系、フィン・ウゴル系の諸民族、北カフカスまで征服して支配下に置き(モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻)、ルーシ(キエフ大公国),ポーランド,ハンガリーまで進撃した(モンゴルのルーシ侵攻、モンゴルのポーランド侵攻)。
1242年、バトゥはオゴタイ=ハンの訃報を受けて引き返し、オゴタイ=ハンの後継が決まらず紛糾するのを見て、ヴォルガ川下流に留まることを決め、サライを都とするとともに、周辺の草原地帯を諸兄弟に分封して自立政権を築いた。

フビライ時代の遠征路 1260年〜1294年

1260年、モンゴル帝国第5代皇帝にフビライが即位した。
1277年〜1287年、モンゴルのビルマ侵攻: パガン朝のナラティーハパテ王は、属国でありながら、1271年、モンゴル帝国(元)の使者を拒絶し、1273年にはモンゴル帝国(元)の使者を処刑し、元朝に内通した金歯などのタイ系の諸族に対し報復攻撃をしかけた。これに対応する形で、初めてモンゴル軍(元軍)はパガン朝に対し大々的な軍事行動を起こした。モンゴル帝国が勝利し、パガン朝は滅亡した。
1274年、1281年、元寇: モンゴル帝国(元)およびその属国である高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻。1274年を文永の役、1281年を弘安の役という。日本(鎌倉幕府)が勝利し、高麗連合軍は撤退した。
ベトナムの陳朝、チャンパ王国、ジャワ島のマジャパヒト王国などへも遠征したが、現地勢力の激しい抵抗を受け撤退した。

地図参考

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