応仁の乱とその後地図 惣村の形成と土一揆
応仁の乱とその後地図 ©世界の歴史まっぷ

応仁の乱とその後地図

応仁の乱とその後地図 惣村の形成と土一揆
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  • 投稿日 2018-03-28
  • 最終更新日時 2020-05-28

応仁の乱とその後地図

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西軍守護大名(山名方)20カ国11万余人, 東軍守護大名(細川方)24カ国16万余人, 西軍側守護大名の領国, 東軍側守護大名の領国, 中立領域, ※本陣の位置から西軍・東軍とよぶ, 鎌倉, 堀越, 古河, 古河公方, 堀越公方, 一色義直, 斯波義康, 六角高頼, 山名, 山名持豊(宗全), 土岐成頼, 畠山義就, 大内政弘, 一色, 斯波義敏, 山名是豊, 武田, 細川, 勝元, 京極, 細川勝元, 細川成之, 赤松, 土岐, 畠山政長, 冨樫正親, 山内上杉氏, 扇谷上杉氏

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凡例

  • 加賀の一向一揆 1488〜1580:延暦寺との抗争で、大谷廟堂を焼かれた蓮如は、姻戚の興福寺大乗院門跡の助けで、興福寺領越前国河口荘吉崎に御坊を設け、御文を用いて布教をおこなった。浄土真宗を精神的支柱とした門徒(僧・国人・百姓)の一揆は高尾城の加賀国守護富樫政親を破り、以後、約100年間「百姓ノ持チタル国」をつくりあげた。
  • 山城の国一揆 1485〜93:応仁の乱の契機となった畠山義就・政長両派の対立は、乱の終結後も続いていた。戦場となっていた山城南部の国人・地侍は一揆を結成し、両派の国外退去を求め、のち、宇治平等院で掟法をさだめ、月行事を中心に政務が執られた。
  • 享徳の乱 1454〜77:鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を誅殺し、幕府軍の追討をうけた反乱。成氏は鎌倉を放棄し、古河公方となる。一方、幕府から派遣された足利政知も鎌倉に入れず、堀越公方として対峙した。

参考

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山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠

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