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- 投稿日 2018-02-16
- 最終更新日時 2018-04-14
1420年頃の勢力範囲地図
1420年頃の勢力範囲地図
地名:ジャンヌ・ダルク, ドンレミ, オルレアン, 戴冠, イングランド王国, 神聖ローマ帝国, フランス王国, ブルゴーニュ公国, アルトワ, フランドル, ブラバント, シャンパーニュ, ブルゴー, ニュ公国, フォルミニ−, アジャンクール, パテー, カスティヨン, コンピエーニュ, ボルドー, カレー, トロワ, ディジョン, ヌヴェール, シノン, ルーアン, パリ, ランス
凡例
- 1420年頃のイングランド王国の勢力範囲
- 1420年頃のフランス王国の勢力範囲
- ジャンヌ・ダルクの進路 - ドンレミからシノンの王宮へ
- ジャンヌ・ダルクの進路 - 1429年オルレアンからランス(戴冠)へ
- 1415年 - イングランド軍侵攻路
百年戦争
アジャンクールの戦い
1415年10月25日
フランスのアジャンクールで行われた戦い。
ヘンリー5世の率いるイングランド軍(7,000名)がフランス諸侯軍(20,000名)を破った。イングランド軍が長弓隊を駆使して、数に勝るフランスの重装騎兵に圧勝した戦いとして有名である。多くのフランス貴族が討ち取られ、フランスがヘンリー5世の子孫によるフランス王位継承を認める原因になった。
オルレアン包囲戦
1428年から1429年
イングランドとフランスの百年戦争においてターニングポイントとなった、フランスのオルレアンで起きた戦闘。
この包囲戦は、ジャンヌ・ダルクの主要な軍事行動における最初の勝利であり、1415年にアジャンクールの戦いで敗れた後のフランスにとって、最初の大きな勝利であった。この包囲戦の結果、その後のイングランドの軍事力は下降線となっていった。
半年間にわたりイングランドが優勢であったが、ジャンヌ・ダルクの到着後9日間で、イングランドによる包囲は崩壊した。
パテーの戦い
1429年6月18日、北フランス中部のパテー近郊で行われた百年戦争の主要な戦闘。
攻勢にでたフランス軍によるこの戦いが戦争の流れを変え、野戦で絶対的劣勢だったフランスのこの勝利により、イングランド軍退勢の流れを作り出した。また、ランスへの道が開けたことにより、不義の子、私生児とされていた王太子シャルル(後のシャルル7世)の戴冠を実現し、正当性を知らしめることができる主因となった。
コンピエーニュの戦い
オルレアンの包囲網を突破したフランス軍は、ロワール川沿いを制圧しつつ6月18日のパテーの戦いに勝利しランスに到達、シャルル7世はノートルダム大聖堂で戴冠式を行った。
その後、ジャンヌ・ダルクはシャルル7世によりパリの解放を指示されるが失敗、1430年にはコンピエーニュの戦いで負傷、捕虜として捕らえられ、1431年5月30日に火刑に処された。
フォルミニーの戦い
1450年4月15日にフランス北部ノルマンディー地方で行われた百年戦争後期の戦闘。イングランド軍が大敗しノルマンディーを完全に失い、百年戦争の帰趨を実質的に決定した。この3年後のフランス南西部で行われたカスティヨンの戦いでイングランド側はギュイエンヌを失い、百年戦争は終結した。
カスティヨンの戦い
1453年7月17日
フランス王国・ブルターニュ公国とイングランド王国の間で行われた最後の戦いである。
この戦いは、ヨーロッパ史において大砲が戦争の決着をつけた主要な要因となった初めての戦いであると言われている。
地図参考
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