イコノクラスム
Miniature from the 9th-century Chludov Psalter with scene of iconoclasm. Iconoclasts John Grammaticus and Anthony I of Constantinople. ©Public Domain

イコノクラスム


イコノクラスム
聖像破壊運動。ギリシア語のエイコン(聖像)とクラオー(破壊)に由来する。ビザンツ帝国イサウリア朝(717〜802)の開祖レオン3世とその子コンスタンティノス5世は、聖像崇拝を厳禁する宗教政策(イコノスラスム)をとって聖像崇拝派の修道院を弾圧し、東西両教会の対立を深めた。

イコノクラスム

イコノクラスム
The first iconoclast period: 730–787, The torture and martyrdom of the iconophile Bishop Euthymius of Sardeis by the iconoclast Byzantine Emperor Michael II in 824, in a 13th-century manuscript©Public Domain

宗教のうちのあるものは、たとえば「神」のような信仰の対象が、あらゆる人間的認識能力を超えた絶対的超越であることを強調する。そのため、神が感覚的認識の対象となるような画像によって表現されることはありえず、またあえてこれを行うことは涜神的行為であるとする。このような考えから自他の宗教、宗派における聖像の破壊、禁止に出ることがしばしばある。ユダヤ教ではこの傾向が強く(旧約聖書出エジプト記』におけるモーセの十戒の第二戒、あるいは「金の犢」の破壊の物語など)、イスラムにおいても同様である。仏教、キリスト教は聖像を用いるが、初期仏教芸術のなかには明らかに釈迦を人間像として表わすことを拒否する伝統があった。キリスト教のなかにも聖像忌避の伝統は強く、726~864年のビザンチン帝国におけるイコノクラスムは政治、文化両面に重大な結果をもたらした(聖像崇拝論争)。 1566年のオランダにおけるカルバン派信徒のカトリック聖像破壊と同様であるが、フランス革命の際のイコノクラスムは啓蒙主義に基づいて迷信打破を唱えた急進的合理主義によって行われた。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

ヨーロッパ世界の形成と発展

ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ世界の成立

ローマ・カトリック教会の成長

正統アタナシウス派の教義に従うカトリック教会のうち、ローマ教会は帝国の首都に位置することと、使徒ペテロ起源説を根拠に、早くから他の教会に対して首位性を主張した。ローマ司教はペテロの後継者を自認し、教皇(法王)と尊称された。
しかし、330年にコンスタンティノープルへの遷都が行われ、476年に西ローマ帝国が滅亡すると、コンスタンティノープル総主教は東ローマ帝国皇帝の権威を後ろ盾にローマ教会の首位性を否定するようになった。

東西両教会の対立を深めたもうひとつの要因に、聖像崇拝論争がある。元来キリスト教は偶像崇拝を禁止していたが、異教徒への布教の必要から、ローマ教会は聖像(キリストや聖者の画像・彫像)の使用を容認した。しかし、東ローマ帝国では小アジア地方を中心に聖像禁止派の勢力が強く、また皇帝専制の障害となる修道院勢力が聖像崇拝派であったことなどから、726年、東ローマ帝国イサウリア朝初代皇帝レオン3世(717〜741)は聖像禁止令を発布した。その結果、ローマ教会は東ローマ帝国にかわる政治勢力を新たに求めるようになった。

ローマ・カトリック教会の成長 – 世界の歴史まっぷ

東ヨーロッパ世界の成立

中期ビザンツ帝国

イサウリア朝(シリア朝)(717〜802)の開祖レオン3世とその子コンスタンティノス5世は、小アジア地方に侵入するアラブ・イスラーム勢力を一掃し、以後の戦いを国境での局地戦に限定することに成功した。また両帝は、聖像崇拝を厳禁する宗教政策(イコノクラスム)をとって聖像崇拝派の修道院を弾圧した。

それは修道院の所領を中心に進展しつつあった大土地所有を抑えるための戦いでもあったが、結果的には国内の混乱をひきおこし、ローマ教皇との関係も悪化させた。
8世紀の末、エイレーネー(東ローマ女帝)は聖像崇拝を復活し、その後一時論争が再燃したものの、843年には聖像崇拝が正当と認められ論争は終わった。これにより、教義面でのローマ教会との関係は修復されたが、1世紀におよぶ対立の間にローマ教会は次第にフランク王国に接近するようになり、カールの西ローマ皇帝戴冠によってビザンツ皇帝から事実上自立していった。
国内の混乱を収拾したビザンツ帝国では、スラブ人への布教活動が本格化し、ブルガリアとセルビアの改宗が達成されたが、ブルガリアはやがてビザンツの北辺を脅かす強大な勢力となった。

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