キャプテン・クック
ジェームズ・クック公式肖像画(Nathaniel Dance-Holland画/海軍博物館(ロンドン)蔵)©Public Domain

キャプテン・クック


キャプテン・クック (ジェームズ・クック)( A.D.1728〜A.D.1779)

イギリスの海洋探検家。3度の大航海でベーリング海峡や南極付近を含め、太平洋の全貌を明らかにした。オーストラリアを植民地にした。1779年、ハワイ島で原住民に刺殺された。

キャプテン・クック

精緻な海図を作製する優れた航海者

キャプテン・クックことジェームズ・クックは海洋探検家の代名詞である。商船の船員から水兵となり、欧州諸国が参戦した七年戦争に従軍。この時に作製した綿密な海図が注目され、小型軍艦の艦長として南太平洋に派遣される。目的は伝説の南方大陸、テラ・アウストラリスの発見にあった。

足かけ4年の第1回航海では大西洋を南下。南米南端を回りニュージーランドやニューギニアが島であることを確認、オーストラリアに上陸し領有を宣言する。2回めは欧州人で初めて南極圏を航行。3回めは太平洋と大西洋を北極海で結ぶ北西航路を探索。クック、クリスマス、ハワイの各諸島を発見しベーリング海を航行。ハワイに戻ったところで原住民とトラブルになり、殺害された。

園芸大国の基を築いたプラント・ハンター

クックの第1回航海に同行した博物学者ジョゼフ・バンクス(1743〜1820)は、ユーカリやアカシア、ミモザなどを西欧に初めて伝え、プラント・ハンターとしてクック以上の名声を得る。
プラント・ハンターとは食糧や薬、観賞用として利用できる新種の植物を求め、世界中を探検する者のこと。イギリスはキュー王立植物園を使って、彼らが集めた植物の育成条件を調べ、品種改良を施した。その成果に基づき、薬の原料になるペルーのキナや中国の茶をインドに植えたり、アマゾンのゴムノキをマレー半島に移したりして植民地での大量生産を行い、帝国の富の源泉のひとつとした。

クックが初めて上陸したオーストラリアの湾はエイが多く「赤エイ湾」と名付けられたが、貴重な植物が数多くあることから後に「植物学湾(ボタニーベイ)」と改称された。
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綿密な海図を作り大航海

通称キャプテン・クック。イギリス海軍で英仏植民地戦争を戦った。3回の長期航海で、南方から北方まで探検した。南極圏、南米最南端やニューカレドニアに到達、オーストラリアを植民地にした。また、船員たちの職業病とされてきた壊血病の予防にも初めて成功した。精密な海図の作成でも知られる。50歳の時、サンドイッチ諸島(ハワイ諸島)で原住民に殺害された。
キャプテン・クック
ジェームズ・クック公式肖像画(Nathaniel Dance-Holland画/海軍博物館(ロンドン)蔵)©Public Domain

史上初めて敗血病を出さずに世界一周を成し遂げたクック。

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ヨーロッパ主権国家体制の展開

17〜18世紀のヨーロッパ文化

「生活革命」

19世紀になると、ロンドンのキューガーデン植物園(キュー王立植物園 )を中心とするイギリス帝国各地の植物園を結ぶネットワークが完成し、植民地の植物の移植や品種改良が進められ、その成果を利用したプランテーション開発が世界的に進行した。中国でつくられていた茶を、インドやセイロン(スリランカ)のプランテーションで大量に栽培するようになるのは、その一例である。

また同様の関心から、18世紀末になると、キャプテン・クック(1728〜1779)やアレクサンダー・フォン・フンボルト(1769〜1859)を代表とする、探検と一体となった博物学が全ヨーロッパ的に流行した。バルトロメ・デ・ラス・カサスなど16世紀のポルトガル人やスペイン人にとっては、「インディオ」やアフリカの黒人が自分たちと同じ「人間」であるかどうか、ということから問題であったが、17〜18世紀になると、ヨーロッパの近代文明に対する批判として、アフリカ人こそ汚れのない人間だとする「高貴な未開人」という考え方も生まれた。博物学は、その後、チャールズ・ダーウィンにいたる生物学や鉱物学をはじめ多くの学問に枝分かれして、近代科学のもうひとつの基礎となっていった。

「生活革命」 – 世界の歴史まっぷ

詳説日本史研究

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