サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂
サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂 Source Wikipedia

サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂


サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂
アリウス派に属したテオドリック(東ゴート王)によって、490年頃宮廷に隣接して建設されたバシリカ。540年にラヴェンナが東ローマ帝国に編入されてユスティニアヌス1世(東ローマ皇帝)が異端とされたアリウス派の聖堂をすべて没収した際、トゥールのマルティヌスの聖堂として奉献しなおされた。
美しいモザイク画が残ることで非常に有名であり、世界遺産「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」のひとつとして登録されている。

サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂

490年頃宮廷に隣接して建設されたバシリカ。540年にラヴェンナが東ローマ帝国に編入されてユスティニアヌス1世(東ローマ皇帝)が異端とされたアリウス派の聖堂をすべて没収した際、トゥールのマルティヌスの聖堂として奉献しなおされた。
856年に司教ヨハネス7世によって、ラヴェンナの外港であったクラッシス(現在サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂のある場所)から聖アポリナリスの聖遺物がもたらされ、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(新聖アポリナリス聖堂)と呼ばれるようになったといわれている。
11世紀に正面右側に高さ38mの円筒形鐘楼が建設された。16世紀になると正面にポルチコが付加されたが、これは第一次世界大戦の際にオーストリアの砲撃によって破壊されたため、後に再建されたものである。

構造

サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂は、身廊とそれを取り囲む側廊からなる標準的な3廊式バシリカ教会堂である。身廊と側廊は12本のコリント式列柱により仕切られている。1514年から1535年にかけて構造が改編され、身廊上部の壁面の下部が削りとられた。コリント式柱頭上部に逆台形の副柱頭を載せ、その上の半円アーチで壁面を支えているが、これらの修まりの悪さはこの改造のためである。 天井は格子天井になっているが、これは17世紀に取り付けられたもので、本来はサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂と同じく木造の小屋組が露出していた。

装飾

聖堂のモザイクはよく残っているが、たびたび高潮の被害に遭うようになったため、16世紀に創建当時から床面が1.2m以上高く持ち上げられた。このため床面に敷詰められていたモザイクは見ることができないし、内部空間の構成は比較的鈍重に見える。また、アプス部分は創建当時のものは完全に失われてしまっている。

聖母子と東方三博士の礼拝が描かれている。

サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂
サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂 Source rinda

内部の壁面上部には、6世紀時のままのモザイク画が存在している。元々4段構成になっていたが、最下段は床面が嵩上げされた際に取り壊された。最上段はキリストの奇跡と受難の26場面が画かれ、その下の高窓部分には旧約聖書の預言者または福音記者と12使徒(あるいは別の図像かもしれないが確証は全くない)と推察される16人の聖人像が配置される。

サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂
サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂 モザイク画 Source Wikipedia

圧倒されるのはその下部である。北側には、3人のマギに導かれてラヴェンナの外港クラッシスを出立し、聖母子のもとに向かう22人の聖女の殉教者たちの参列が画かれている。南側は、聖マルティヌスに導かれてラヴェンナの王宮から天使に囲まれたキリストに至る26人の殉教者の参列が画かれている。ここに画かれている王宮はテオデリックの宮殿と考えられる。

3段目の図像には、もともとアリウス派を象徴するモザイク画が(例えば王宮の柱間やクラッシスの城壁などに)画かれていたらしく、いくつかの部分が改修されている。今ではアリウス派を想起する場面は全くない。

東方三博士

サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂
サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂 Source Wikipedia

参考 Wikipedia

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ラヴェンナの初期キリスト教建築物群 – 世界の歴史まっぷ

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