タレーラン
タレーラン(ピエール=ポール・プリュードン画/ヴァランセ城蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

タレーラン


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タレーラン Talleyrand( A.D.1754〜A.D.1838)
フランスの政治家。絶対王政期、フランス革命期、総裁政府期、ナポレオン時代、王政復古期、ルイ・フィリップ時代に高官として活躍し、史上傑出した外交官の一人として知られる。ウィーン会議に出席、正統主義を提唱。戦勝国オーストリアとイギリスとの分断画策に成功、歴史上外交技術の最高実例とみなされている。七月革命ではルイ=フィリップに協力、その後ロンドン駐在大使としてイギリス、フランス間交渉に最も重要な役割を果し、ベルギーの独立を助けた。

タレーラン

フランス第一共和政総裁政府外相(任1797〜1799)、第一帝政統領政府外相(任1799〜1807)、復古王政外相(任1814〜1815)、七月王政首相兼外相(1815〜1815)

会議は踊る、されど進まず
ウィーン会議の様子( Jean-Baptiste Isabey画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
❶プロイセン王国宰相ハルデンベルク ❷[議長]:オーストリア外相メッテルニヒ ❸イギリス外相カスルリー ❹フランス外相タレーラン
ナポレオン戦争の戦後処理を行うため、1814〜15年にかけて開催されたウィーン会議の様子。革命勢力の抑制、安定した国際秩序の創出を主眼に、領土や外交上の制度が定められた。

フランスの政治家。絶対王政期、フランス革命期、総裁政府期、ナポレオン時代、王政復古期、ルイ・フィリップ時代に高官として活躍し、史上傑出した外交官の一人として知られる。幼少の頃事故が原因で足が不自由となり、聖職者を志した。1770年パリのサンシュルピス神学校に入学。78年ソルボンヌで神学の学位を取得。翌年ランスの司教総代理、88年名門の出自ゆえにオータンの司教となった。89年5月の全国三部会に聖職者代表として参加し、三身分の統一に尽力。革命期に立憲派として教会財産の没収を提案し、「僧侶民事基本法」の成立に貢献。97年ナポレオン1世の執政政府の外相に就任、1807年までつとめた。その間、04年帝国大法官となる。その後ナポレオンとの間に意見の対立が生じ、14年ブルボン朝を支持してナポレオンの退位を宣言。14~15年ウィーン会議に出席、戦勝国オーストリアとイギリスとの分断画策に成功、歴史上外交技術の最高実例とみなされている。七月革命ではルイ・フィリップに協力、その後ロンドン駐在大使としてイギリス、フランス間交渉に最も重要な役割を果し、ベルギーの独立を助けた。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

欧米における近代社会の成長

フランス革命とナポレオン

ブリュメールのクーデタとナポレオン

エジプトを征服し、イギリスのインド支配にいどむ基地とするという目的で、1798年ナポレオンはエジプト征服をおこなった。しかし、エジプトは占領したが、フランス艦隊はイギリスのネルソン艦隊にアブキールで敗れて全滅し、フランス遠征軍はエジプトに釘づけにされた。1799年イギリスはオーストリア・ロシアなどと第2回対仏大同盟を結成した。国内の政治状況とイギリスの動きをエジプトで知ったナポレオンは、軍をエジプトにおいて、500の兵と4隻の船でフランスに戻った。

シェイエスタレーラン・フーシェらが協力をし、クーデタ計画が練られた。1799年11月9日、革命暦ブリュメール(霧月)18日、ナポレオンは軍を指揮してクーデタを実行、総裁政府を倒し、臨時(執政)統領政府 Consular を樹立した(ブリュメールのクーデタ)。新しい憲法がつくられ、国民投票にかけられ、圧倒的多数の賛成をえた。こうしてクーデタは承認された。4院制の議会、3人の統領(執政)からなる政府が組織され、ナポレオンは任期10年の第一統領となり独裁的権力を握った。

欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

ウィーン会議
ウィーン会議
ウィーン会議(1814〜15)の風刺画 (元画像:fineartamerica

メッテルニヒ(オーストリア外相・1821〜宰相)を議長に開催されたウィーン会議で、オーストリア皇帝がヴェネツィア・ロンバルディアを獲得しようとするなど有力国が領土再編をめぐり権謀術数をつくしているさまが描かれている。「会議は踊る、されど進まず」といわれたこの会議は、タレーラン(フランス外相)の提唱した正統主義を原理に、大国間の利害一致・勢力均衡の観点から妥協が成立し、ウィーン議定書が結ばれた。 参考: 山川 詳説世界史図録

ナポレオン1世がエルバ島に流刑にされたあと、1814年4月第1次パリ平和条約が締結されたが、フランス革命とナポレオンによって生じた混乱に終止符をうち、新しい国際秩序を確立するために、1814年9月から15年6月にかけてウィーン会議が開催された。この会議にはイギリスからはカッスルレー、フランスはタレーラン、ロシアからアレクサンドル1世、プロイセンからはハルデンベルクらが参加したが、司会をおこなったのはオーストリアの外相(のちの宰相)であるメッテルニヒであった。各国の思惑と利害の対立は深刻であったので、「会議は踊る、されど進まず」という状態が続いた。

「会議は踊る、されど進まず」:会議は連日華麗な舞踏会や催し物が開かれ、全体会議は1回も開催されなかった。

タレーランの提唱した正義主義は各国の君主に歓迎されて基本原則として採用され、ヨーロッパ各国の勢力均衡がはかられた。ナポレオンのエルバ島脱出の知らせのあと、最終議定書(ウィーン議定書またはウィーン条約)がワーテルローの戦いの直前になって成立した。

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