ペロポネソス同盟 ペロポネソス戦争 ペロポネソス戦争とポリスの没落 デロス同盟 ペロポネソス戦争地図
ペロポネソス戦争地図 ©世界の歴史まっぷ

デロス同盟


デロス同盟
盟主: アテネ(アテナイ)。ペルシア戦争後の紀元前478年、アケメネス朝ペルシアの脅威に備えてイオニア地方などエーゲ海の諸ポリスが参加した同盟。

デロス同盟

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概要

この同盟はペルシアの脅威からポリスの独立を守る防衛同盟であり、参加ポリス(最大時には約200に達した)はなによりも艦隊と兵員を提供する義務を負った。それが無理な場合には、貢納金を払うこととされた。アテネの将軍が同盟軍の指揮権をもち、金庫の10人の管財人もすべてアテネ人で、アテネの同盟盟主としての地位は明らかであった。同盟は実際にトラキアや黒海方面、エジプトに艦隊を送ってペルシア方を抑えようとした。しかしエジプトで敗北し、そのため金庫がアテネに移されて、同盟はしだいにアテネが他ポリスを支配する道具と化していった。ポリスが納める貢納金はアテネへの貢租にひとしくなり、アテネは同盟資金を自分たちのために流用するようになった。同盟市の反抗を許さず、離反したポリスには懲罰を加えた。加盟ポリスにはアテネの貨幣・度量衡を用いることを強制し、ポリス間の紛争はアテネの法廷で裁くこととされた。アテネから各ポリスに駐留軍を送ることもあり、軍事的拠点にアテネの植民市もつくられた。ペルシアとの間には紀元前449年に最終的な和約が結ばれたが(カリアスの和)、デロス同盟は解散せず、アテネの海上支配はいっそう強化されていった。しばしばこのような体制は「アテネ帝国」と呼ばれる。

こうした「アテナイ海上帝国」の台頭に強い懸念を抱いたスパルタは、アテナイの専制的支配に対して離反するポリスが現れると、これを支援する姿勢をみせることもあった。こうしてスパルタ・アテナイ間の緊張が先鋭化し、紀元前431年には両者の対立は頂点に達し、ギリシアの諸ポリスによる深刻な内戦であるペロポネソス戦争が勃発した。紀元前404年、アテナイの敗北が決まるとデロス同盟は解散した。

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