ノルマン・コンクエスト ヴァイキング
ノルマン・コンクエスト イングランド王エドワード懺悔王の使者としてノルマンディー公のもとに向かうハロルド2世。バイユーのタペストリーの一場面 ©Public Domain

ノルマン・コンクエスト


ノルマン・コンクエスト
ノルマンディー公ギヨーム2世によるイングランドの征服を指す。ノルマン征服ともいう。1066年のヘイスティングズの戦いに勝利したギヨーム2世はウィリアム1世としてノルマン朝を開いた(ウェストミンスター寺院での戴冠式は同年12月25日)。これによりイングランドはノルマン人により支配されることとなった。

ノルマン・コンクエスト

概要

イングランドでは、七王国が覇をきそいあっていたイギリスでは、デーン人の侵入に刺激され、829年エグバート(ウェセックス王)により初めて統一された(アングロ・サクソン王国)が、それも長続きしなかった。デーン人の侵入は次第に定着を目的としたものとなり、攻撃も激しさを増して、9世紀後半にはウェセックスを除く諸地域がすべて屈服した。
そのころ国王に即位したアルフレッド大王は、諸勢力を結集してねばり強い反撃を展開し、デーン人との協定(866)により、イングランド南西部の独立を守った。

デーン朝(北海帝国)

10世紀になると再びデーン人の侵入が開始された。今度はデンマーク王国を拠点とする組織的かつ大規模なもので、アングロ・サクソン王国は毎年多額の貢納により宥和ゆうわをはかったが、1016年、ついにデンマーク王子クヌートに征服された。
クヌートはイングランド王に即位し、デーン朝を成立させた(クヌート1世(イングランド王))。
クヌートはその後デンマーク王を継承、さらにノルウェー王を兼ね、スゥエーデンやスコットランドの一部をも支配して、北海を内海とする一台海上帝国を建設した(北海帝国)。
だが、その帝国もクヌートの死とともに急速に瓦解し、イングランドではアングロ・サクソンの王家が復活した。

ウェセックス朝

そのエドワード懺悔王はノルマンディーで成長したこともあって、ノルマンディー出身の貴族を寵愛し、国内貴族と対立した。
1066年、エドワードが没すると、義弟のウェセックス伯ハロルドが王を称し(ハロルド2世(イングランド王))、おりから大軍を率いて北部の要衝ヨークに侵入したハラール3世(ノルウェー王)と戦い、これを撃破した。

ノルマン朝

この隙をついて、南岸に上陸したのがノルマンディー公ギヨーム2世であった。ウィリアムはエドワード懺悔王の遠縁にあたり、王から後継者の約束を受けたことを理由に、王位を要求した。ノルマン騎士軍を率いたノルマンディー公ギヨーム2世は、急遽南下したハロルド2世(イングランド王)ヘイスティングズの戦いで廃止させたのち、ウィリアム1世(イングランド王)として即位し、ノルマン朝を開いた(1066「ノルマン征服(ノルマン・コンクエスト)」)。
ウィリアム1世は、数年のうちに北部を中心とするアングロ・サクソン貴族の反乱を抑え、全イングランドに支配を確立すると、フランスから封建制度を導入して統治した。こうして、ノルマン朝のもとでイングランドの封建国家化が進むことになった。ウィンチェスターからロンドンへ遷都した。

征服

以前のイングランドはサクソン人やデーン人の大諸侯が各地に割拠している状態だったが、ウィリアム1世征服王はイングランドの統一を推進した。ノルマンディー式の封建制を取り入れて、ヘイスティングズの戦いなどで戦死・追放した諸侯の領土を没収し、配下の騎士たちに分け与えた。さらに、各州に州長官を置いて、王の支配を全土に及ぼした。
緩やかな支配に慣れていたサクソン諸侯は、当初、ハロルド2世(イングランド王)の一族やエドガー・アシリング(エドワード・アシリングの幼い息子)をかついで各地で反乱を起こしたが、各個撃破された。その後も1070年にデーン人、スコットランド王などの支援を受けてヨークシャーなど北部で反乱が起きた。所領を奪われたサクソン人やデーン人達はロビン・フッドのモデルの1人といわれるヘリワード・ザ・ウェイクを首領として、ウォッシュ湾近くのイーリ島に集結して抵抗したが、むなしく鎮圧された(1074年)。これ以降、イングランドは安定した。
エドガー・アシリングはスコットランドに逃亡し、その姉マーガレットは後にマルカム3世(スコットランド王)と結婚した。2人の間の娘イーディス(マティルダ・オブ・スコットランド)は後にサクソン人とノルマン人の融和の証としてヘンリー1世(イングランド王)と結婚することになる。
ウィリアム1世は反乱諸侯から領土を取り上げると共に、サクソン人の貴族が後継ぎ無く死亡したり、司教、修道院長が亡くなると代わりにノルマン人を指名したため、1086年頃にはサクソン人貴族はわずか2人になっていた。また、カンタベリー大司教もサクソン人のスティガンドが解任され、カンタベリーのランフランクスが就任しているが、これはローマ教皇の意向が働いており、以降イングランドにおけるローマ教会の影響力は強くなり、ウィリアム2世の時代のイングランドにおける叙任権闘争につながっていく。

ノルマン・コンクエストとは、ノルマン人の農民が大挙襲来して、サクソン人の農民が大挙追放されたことではない。サクソン人の領主が追放されて、ノルマン人の領主が取って代わっただけにすぎない。その意味で、ノルマン・コンクエストとは、国民全体から見ればごく少数の領主・貴族に限った征服だとも言える。当然ながら、民衆の中から古英語やイングランド文化が消滅したわけでもない。

支配

ウィリアム1世の支配の下で、サクソン人は土地を奪われた。サクソン人の一部はスコットランドや各地に逃亡し、はるか東ローマ帝国に傭兵として雇われるものもいた。
ウィリアム1世は所領を与える際、まとまった一地域を与える代わりに各地の荘園を分散して与えた。征服が少しずつ進んだことによる必然でもあるが、このため一地域を半独立的に支配する諸侯は生まれなかった(王族などに例外はある)。諸侯は所領が分散しているため反乱を起こしにくく、また支配地域の安定のために王の力に頼る必要があったため、王権は最初から強かった。一方、諸侯はお互いに頼りあうことになるため、王に対しても協力して対抗しやすく、後にマグナ・カルタイングランド議会の発展につながる要因となっている。
また全国の検地を行い、課税の基礎となる詳細な検地台帳(ドゥームズデイ・ブック)を作り上げた。当時のフランス、ドイツ、イタリアは大諸侯が割拠する封建制であり、イングランドの体制は西欧で最も中央集権化が進んでいた。

影響

フランス王の封建臣下であるノルマンディー公が同時にイングランド王を兼ね、フランス王より強大になったことによる両者の争いは、プランタジネット朝においてさらに激しくなり、百年戦争を引き起こすことになる。また、それまでのイングランドではスカンディナビア、ゲルマン文化の影響が強かったが、フランス文化がこれに取って代わることになり、政治的にもフランスと深く関連することになる。

ウィリアム1世に従う北フランス各地の貴族たちは、ひとまずイングランドに定着したが、その後しだいにウェールズ、アイルランド東南部、スコットランドにも広がってゆき、フランス北西部とブリテン諸島は北フランス文化圏に組み入れられることとなった。
ノルマン人の子孫であるノルマンディーの貴族たちは、移住してから100年程度たち、風習、言語ともにフランス化していたので、イングランドではそれまでのテュートン系古英語に代わり、ノルマンディー方言(ノルマン・フレンチ、アングロ・フレンチ)を中心とする北フランスの言語が貴族社会の言語となった。また、英語もこれらの言語の影響を強く受け、中英語へと変化した。
動物を示す英語と、その肉を示す英語が異なる(例:豚 – pig, swine/豚肉 – pork; 牛 – cow, bull, ox/牛肉 – beef; 羊 – sheep/羊肉 – muttonなど)のは、イングランドの被支配層が育てた動物の肉を、ノルマンディーからの支配層が食用としたために、二重構造の言葉となったケースの典型といわれている。その他 yard と garden、dove と pigeon などの例が挙げられる。
このほかにも、文化的な語彙を中心に、多くのフランス語が英語に流入した。なお、当時のフランス語では ch (多くラテン語の c /k/ に由来)と書いて /tʃ/ と発音したが、その後転訛が進み、現代フランス語では /ʃ/ となった。当時の発音は英語の中に遺されているということになる(例:Charlesはフランス語ではシャルル、英語ではチャールズと読む)。
また、法廷や公文書などもフランス語で表記された。これは1362年に『訴答手続規則』(The Statute of Pleading)において英語を用いるように定められるまで続けられた。

Wikipediaより

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