ビスマルク外交 パン=ゲルマン主義 ビスマルク外交による同盟網
ビスマルク外交による同盟網 ©世界の歴史まっぷ

パン=ゲルマン主義


パン=ゲルマン主義 Pan-Germanism

全てのドイツ系民族の連帯と結集を呼びおこし、ドイツ帝国の世界制覇を実現しようとする主張。全ドイツ連盟がとなえ、世論を誘導しようとした。この主義のもとでヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) による世界政策が進行した。

パン=ゲルマン主義

全てのドイツ系民族の連帯と結集を呼びおこし、ドイツ帝国の世界制覇を実現しようとする主張。全ドイツ連盟がとなえ、世論を誘導しようとした。

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第1次世界大戦前ドイツ帝国のもとに国外に住む全ゲルマン民族の結合をはかり、それによってドイツ民族の生活圏の拡大を実現しようとする主張。概念としては汎スラブ主義ほど明確ではなく、ドイツの世界政策推進のためのドイツ勢力の東方進出を意味し、むしろ外国人によって使われた。ドイツ人自身の意識的運動としては、「全ドイツ主義」を主張する全ドイツ連盟によって具体的に推進された諸運動および思想がこれにあたり、全ドイツ連盟は新聞や出版物によって政府の外交政策を妨げ、この主義のもとでヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) による世界政策が進行した。第1次世界大戦勃発後は併合政策を主張し、その主張の多くはナチスに受継がれた。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

東方問題とロシアの南下政策

1870年からのプロイセン=フランス戦争ナポレオン3世が失脚すると、ロシアは外交攻勢をかけてパリ条約を改定することに成功し、黒海艦隊を再建した。1875年ボスニア=ヘルツェゴヴィナでギリシア正教会徒が反乱をおこし、さらにブルガリアにも飛び火した。オスマン帝国は軍隊の力をもって残酷に鎮圧したので、ロシアはパン=スラヴ主義 Pan-Slavism *4の後継者として、ギリシア正教会徒保護を名目にしてオスマン帝国と開戦した(ロシア=トルコ戦争 / 露土戦争 1877〜78)。この戦争ではロシアがイスタンブルに肉薄したのに対し、オスマン帝国はイギリスに支援要請をだし、イギリス軍がマルマラ海に派遣された。イギリスとの戦争の危機を迎えたロシアは急遽オスマン帝国との間に、1878年サン=ステファノ条約を結んで、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、ブルガリアの自治領化を決めた。イギリスはブルガリアをロシアの傀儡国家と考えていたので、この条約に反発し、さらにパン=ゲルマン主義*5を進めるオーストリアも反発したので、ヨーロッパの緊張は高まった。このためドイツのビスマルクは「誠実なる仲介人」を自認して、ロシア・イギリス・オスマン帝国・オーストリア・ドイツ・フランス・イタリアの7カ国が参加したベルリン会議(1878)を開催した。

*4 パン=スラヴ主義:バルカン半島に居住するスラヴ民族の統一を支援し、ロシアの主導のもとに運動を統一しようとする考え。ロシアの対外膨張政策のイデオロギーとして使われた。

*5 パン=ゲルマン主義:ゲルマン民族の団結と統一をめざす考え方で、オーストリアのバルカン半島方面への膨張主義の根拠となったイデオロギー。

  • 東方問題とロシアの南下政策 – 世界の歴史まっぷ
ビスマルク外交
1870年代のヨーロッパ地図
1870年代のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

ビスマルクにとってもっっとも警戒を要したのはフランスであった。フランスはプロイセン=フランス戦争敗北以来ドイツに対する復讐心に燃えており、ブーランジェ事件(1887〜89)やドレフュス事件(1894〜99)の背後にはドイツに対する敵愾心てきがいしんがあった。領土的にもアルザス・ロレーヌ地方の問題が両国の間には横たわっていた。そのためビスマルクは「光栄ある孤立」を保っていたイギリスと協調・親善関係を維持し、イギリスとフランスの接近を防いだ。イギリスもまたアフリカにおいて縦断政策を推し進めていたので、横断政策を進めるフランスとは植民地獲得競争において敵対的関係にあった(アフリカ問題)。

ビスマルク外交による同盟網
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そしてビスマルクはロシアとオーストリアを誘って三帝同盟 League of the Three Emperors を1873年10月締結し、フランスの一層の孤立化をはかった。しかしロシアとオーストリアはバルカン半島においてパン=スラヴ主義 Pan-Slavism とパン=ゲルマン主義 Pan-Germanism のもと激しく対立していた(バルカン問題)。78年(6〜7月)のベルリン会議でビスマルクが「誠実なる仲介人」と称して関係国の利害を調整したが、決定にロシアは不満をもち、三帝同盟は崩壊した。

帝国主義とアジアの民族運動

帝国主義と列強の展開

ドイツ

社会民主党系の労働組合の発展も著しく、1912年には組合員数は256万人に達した。政治的な路線闘争よりも共済制度や福利厚生事業による労働者保護を重視する労働組合の動向は、社会民主党の急進主義からの後退に影響を与えた。政府は帝国主義的な膨張政策を展開して反体制派や労働者を体制内に統合し、市民の側でも全ドイツ人による大帝国建設を求めるパン=ゲルマン主義を支持する傾向が強まった

パン=ゲルマン主義は、オーストリアばかりでなく東欧もふくめてドイツ国外の全ドイツ人の民族的結集をはかり、ドイツ帝国の世界覇権をめざすイデオロギーであった。このイデオロギーは支配層から小市民層まで幅広い社会層を結集した「全ドイツ連盟」によって唱えられた。また青年組織から在郷軍人会までナショナリズムを鼓吹し、ドイツ社会は深くミリタリズム(軍国主義)が浸透していった。

このようなナショナリズムは反ユダヤ主義やポーランド人などの外国人労働者排斥運動と結びついた。1912年の社会民主党の勝利は、反帝国主義闘争をすてて有権者の現実的要請に応じた結果えられたものでもあった。

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