ピューリタニズム
ウェストミンスター会議(John Rogers Herbert画/ウェストミンスター宮殿蔵)©Public Domain

ピューリタニズム


ピューリタニズム (清教主義)

16世紀後半、イギリス国教会内部から生じたプロテスタントの一派ピューリタン(清教徒)の思想。宗教改革を徹底することによって、国教会の浄化をめざした運動であったが、カルヴァン派の影響をうけ、政治的・社会的な運動として展開。聖書主義(福音主義)の立場をとり、世俗の職業を重視して、合理主義の立場から禁欲や勤勉を説いた。

ピューリタニズム

16世紀後半、イギリス国教会内部から生じたプロテスタントの一派。これを奉じる人をピューリタン(清教徒)と呼び、彼らはエリザベス1世(イングランド女王)による宗教改革をなお不徹底とし、聖書に従って、教会をより純化すべきだと主張した。神学的にはカルヴァン主義に立ち、教会の国家からの独立を主張した。テューダー朝下ではイギリス国教会内部での改革に努めたが、国教会を揶揄やゆする文書に起因するマープリレト論争(1588~1589)により弾圧された。スチュアート朝のジェームズ1世(イングランド王)の時代に一部はアメリカへ移住(1620)し、一部は国王の唱える王権神授説に反対した。後者はイギリスの普通法を擁護する法律家や国民の権利を主張する大衆と結びついて一大勢力となり、続くチャールズ1世(イングランド王)時代には清教徒革命を起こした。現代のイギリス、アメリカのプロテスタント諸派のうち、長老派、会衆派、バプテスト派などは清教主義に由来する。清教主義の精神は、アングロアメリカの近代精神、特に民主主義、人権意識、自立思想などの形成を促進したほか、資本主義の精神も育成した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2017

ヨーロッパ主権国家体制の展開

イギリス立憲政治の発達

ピューリタン(清教徒)革命

エリザベス時代以来、国内はジェントルマン階層とともに、ヨーマンと呼ばれた比較的豊かな農民や商工業者が力をもつようになり、彼らを中心にピューリタニズムの信仰が広まった。彼らが、とくに議会に結集する傾向を示すと、ジェームズ1世(イングランド王)はいっそう強圧的な政治で対抗したため、両者の対立が激化した。

ピューリタニズム

本来は、宗教改革を徹底することによって、国教会の浄化をめざした運動であったが、カルヴァン派の影響をうけ、政治的・社会的な運動として展開した。一般には聖書主義(福音主義)の立場をとり、世俗の職業を重視して、合理主義の立場から禁欲や勤勉を説いた。長老派、組合派、バプテスト、クェーカーなど多様なセクト(宗派)に分かれ、イギリスではピューリタン革命の原動力となったほか、多くのセクトがアメリカで発展した。

世俗の職業を重視
禁欲的に世俗の職業に従事することが、神から与えられたこの地上における使命(天職 calling)を果たし、救いを確信することになる。世俗的職業にも宗教的意味を与えたこうした禁欲的職業論理は中産的市民、知識階級にうけいれられ、カルヴァン派の活動はヨーロッパ各地に広がった。のちにドイツの思想家マックス・ヴェーバー(1864〜1920)によってプロテスタンティズムの職業倫理は資本主義の精神と結びつけられ説明された。
カルヴァンの改革 – 世界の歴史まっぷ

17〜18世紀のヨーロッパ文化

小説の出現 – 文学の発展

イギリスでは、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲が、やはり英語の国語としての確立に貢献した。17世紀初頭には、このシェイクスピアやベン・ジョンソン(詩人)(1572〜1637)などを中心として、前世紀以来のルネサンス文学が展開した。ついでピューリタニズムが広がるにつれて、『天路歴程』のジョン・バニヤン(1628〜1688)や、『失楽園』のジョン・ミルトン(1608〜1674)に代表されるピューリタン文学が生まれた。

欧米における近代社会の成長

産業革命

イギリスの産業革命

イギリスでは、こうして産業革命に必要な資本や労働力が準備された。このほか、禁欲と勤勉をすすめ、世俗の職業を重視したプロテスタントの信仰(ピューリタニズム)や科学革命による自然科学の発達など、知的・精神的な条件も整えられた。それによって、遅刻をしないで時間を正確にまもる近代的な労働者と、合理的な経営を行う経営者が、生みだされたからである。

都市化進展と労働者階級

住民同士の共同体的なつながりは都市ではとくに弱かったので、救貧の問題が都市でも農村でも深刻になった。18世紀末には、最低生活を維持できるだけの賃金のえられない者に補助を与える制度(スピナムランド制)が広がった。しかし、この制度はあまりにも費用がかかりすぎたため、1834年にはエリザエス時代から続いた救貧法が全面的に改訂され、「自助」の精神が強調されることになった。

自助の精神を強調する考え方はピューリタニズムからでてきたもので、産業革命の進行とともに勢力を拡大してきた中産階級にうけいれられた。この考え方からすれば、貧困は本人の責任ということになる。自助の精神を強く奨励したサミュエル・スマイルズ『自助論』は、ベストセラーになった。この書物は日本でも、明治時代に中村正直の手で紹介され(『西国立志篇さいごくりっしへん』)、人気を博した。

時間給が普及したことは、労働の時間と生活の時間がはっきり別れたことを意味する。生活の時間はレジャーの時間でもあり、労働者の多くはパブに集まって飲酒を中心にした娯楽に興じた。工場経営者などはこのような習慣を非難し、「時はカネなり」といったピューリタニズムの行動指針を押しつける一方、旅行や読書・音楽といった、もっと「上品な」娯楽を強制しようとしたため、ここでも深刻な対立がおこった。

アメリカ独立革命

北アメリカの植民地

1620年、プリマス植民地がピルグリム・ファーザーズと呼ばれるピューリタン(清教徒)の一団により建設された。彼らは、信仰の自由を求めてステュアート朝絶対王政下の抑圧を逃れ、メイフラワー号でヴァージニアの北部に渡航、植民地建設を始めたのである。彼らは上陸に先だって船内でメイフラワー契約を結んで、みずから政府を組織し、法律をつくり、たがいにそれらを尊重することを誓った。1630年には新たなピューリタンがマサチューセッツ植民地を建設、植民地議会をつくり自治を発展させた。プリマス・マサチューセッツなどを中心に形成されたニューイングランドの植民地のピューリタニズム(清教主義)、信仰の自由、民主主義などは、アメリカ合衆国の精神的風土の中に発展的にうけつがれていく。

マサチューセッツ植民地とジョン・ウィンスロップ

マサチューセッツ植民地の初代総督ジョン・ウィンスロップ(マサチューセッツ湾植民地知事)(1588〜1649)は、富裕な荘園主で、ケンブリッジ大学出の弁護士でピューリタンの知的エリートであった。彼は設立したマサチューセッツ湾会社そのものを、それまでの植民地特許会社と違い植民地に移した。植民地が本国の株主により支配されることを避け、ピューリタンの信仰で結ばれた植民地を建設しようとしたのである。1630年マサチューセッツに移住したピューリタンは、ウィンスロップを会社の総裁であると同時に植民地の総督に選んだ。自分に従ってきた男女・子ども合わせて500人をこえる人々を、彼は高貴な使命をもった人間家族と考えた。ウィンスロップの厳格なピューリタニズムは、まじめで勤勉な植民地の気風を育てたが、一方では宗教的な不寛容をもたらした。選挙権はピューリタン協会のメンバーに限られ、地域社会もピューリタンを中心とした組織で運営されていた。教会のメンバーになるためにに、その信仰や生活が厳しくチェックされた。そのため、政教分離を主張したロジャー・ウィリアムズや徹底した民主主義を唱えた牧師トマス・フーカーらは、マサチューセッツから分離し、ロードアイランド植民地、コネティカット植民地を建設している。

ウィンスロップ自身は慈悲深く高潔な人柄であったが、彼の死後、ボストンやセイラムで魔女狩りがおこなわれたのも、厳格なピューリタニズムと無関係ではなかった。

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