ヘンリー6世(イングランド王)
ヘンリー6世 @Wikipedia ©Public domain

ヘンリー6世(イングランド王)


ヘンリー5世(イングランド王)

ヨーク朝エドワード4世(イングランド王)

ヘンリー6世(イングランド王) A.D.1421〜A.D.1471

ランカスター朝最後のイングランド王(在位1422年8月31日 - 1461年5月4日, 1470年10月30日 - 1471年4月11日)。フランス王も兼ねた(在位:1422〜1453)。1437年まで摂政が後見。ヘンリー5世(イングランド王)シャルル6世(フランス王)の娘キャサリン・オブ・ヴァロワの子。同時代人からは、平時は平和主義で敬虔だが、非常時は自身が直面した苛烈な抗争には不向きな人物として描かれた。彼の精神錯乱と生まれ持った博愛心は、やがてバラ戦争の開始による自身の没落とランカスター朝の崩壊、ヨーク朝の台頭につながった。

ヘンリー6世(イングランド王)

系図

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生涯

ヘンリー6世の曾祖父であるランカスター家の祖・ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントは、プランタジネット朝第8代王・リチャード2世の父・エドワード黒太子の弟で、3度の結婚により多くの子女を残していた。
ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの息子のヘンリー4世がリチャード2世から王位を奪いランカスター朝を開いたが、ヘンリー4世の異母兄弟エクスター公トマス・ボーフォート、枢機卿ヘンリー・ボーフォート、初代サマセット伯ジョン・ボーフォート(後のヘンリー7世の祖父)、初代サマセット公初代サマセット公らはヘンリー6世の治世でも大きな実権を保持していたため、ヘンリー5世の弟のグロスター公ハンフリー・オブ・ランカスターと対立したいた。

  • 1422年: 8月、父王・ヘンリー5世の急死により、生後9ヶ月で王位を継承する。
  • 1422年: 10月、シャルル6世(フランス王)の死により、1420年のトロワ条約によりフランス王位を継承する。
  • 1423年: ヘンリー5世の弟・ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターが摂政となりフランスでの戦争(100年戦争)継続に当たる。
  • 1423年: ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターの弟・グロスター公ハンフリー・オブ・ランカスターが護国卿としてヘンリー6世の治世を統治する。
  • 1424年: グロスター公ハンフリー・オブ・ランカスターが妻の権利を主張して勝手にネーデルラントに出兵し、イングランドと同盟していたブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)と対立、翌1425年4月に敗退。
  • 1429年: ヘンリー6世ロンドン・ウェストミンスター大聖堂でイングランド王の戴冠式を行う。
  • 1429年: イギリス軍は百年戦争オルレアン包囲戦、パテーの戦いでジャンヌ・ダルク率いるフランス軍に敗戦する。
  • 1429年: フランスはヘンリー6世の王位継承を認めず、シャルル6世の息子のシャルル7世がフランスのランス・ノートルダム大聖堂でフランス王戴冠式を行う。
  • 1430年: 未亡人となったヘンリー6世の母・キャサリン・オブ・ヴァロワ(フランス王・シャルル6世の娘)は、秘書官で事実婚の相手でもあったオウエン・テューダーとの間にヘンリー6世の異父弟・初代リッチモンド伯エドマンド・テューダーを産む。(後のヘンリー7世の父となる)系図参照
  • 1431年: ヘンリー6世はパリのノートルダム大聖堂でフランス王として戴冠式を行う。
  • 1435年: 北フランスのアラスでフランス・イングランド・ブルゴーニュの講和会議が開催されたが、英仏間で和睦内容に折り合いがつかず交渉は決裂する。
  • 1435年: ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターが死去。
  • 1435年: 善良公とシャルル7世がアラスの和約を締結してブルゴーニュはフランス支持を表明、イングランド国王のフランス王位継承権の公認を取り下げる。
  • 1436年: パリがフランス側に奪還され、続くフランスの反撃にもイングランドは有効な手を打てず、1441年までにパリを含むイル=ド=フランス・シャンパーニュをなすすべも無く失っていった。残る大陸領は北のノルマンディーと南西のアキテーヌ、北東のカレーだけとなっていった。
  • 1437年: ヘンリー6世の母・キャサリン・オブ・ファロワ病没。
  • 1437年: ヘンリー6世親政を宣言する。フランスとの平和政策を好む。
  • 1445年: ヘンリー6世、シャルル7世の王妃の姪にあたるマーガレット・オブ・アンジューと結婚し、フランスとの和平を試みる。トゥール条約で、シャルル7世はフランス側からは持参金を提供せず、代わりにイングランドからメーヌとアンジューを割譲されるとの条件で結婚に同意された。この条件はバラ戦争の火種となる。
  • 1447年: 護国卿だったグロスター公ハンフリー・オブ・ランカスターが政敵の枢機卿ヘンリー・ボーフォートとその甥であるサマセット伯エドムンド・ボーフォート、王妃マーガレット・オブ・アンジュー、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールら和平派の工作により逮捕され急死する。
  • 1447年: 枢機卿ヘンリー・ボーフォートも死亡し、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールが宮廷を掌握する。
  • 1445年: ヘンリー6世の推定相続人の第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットが宮廷から締め出される。フランスにおけるイングランド王国の事実上の摂政からノルマンディー方面軍副官に落とされ、サマセット公ジョン・ボーフォートがガスコーニュ方面軍司令官となる。ヨーク公とボーフォート一族の対立はバラ戦争につながる。
  • 1449年: フランスでの軍事行動を指揮していたサマセット公は、フージェール、ルーアンを奪われ、ヘンリー6世の統治は法と秩序の崩壊、汚職、王領の寵臣たちへの分配、王室財政の窮乏、フランスでの恒常的な失地といった要因で不評となっていた。
  • 1450年: 初代サフォーク公ウィリアム・ド・ラ・ポールの専制体制は大貴族、国王側近及び抗戦派など多くの反感を買い、ルーアン陥落による軍事的失策により逮捕され追放の刑に処され暗殺される。(暗殺者不明)
  • 1450年: イギリス軍は百年戦争・フォルミニーの戦いでも破れた後ノルマンディーを完全に制圧され、ヘンリー5世が苦労の末勝ち取った全てを失った。
  • 1450年: 5月、現政府批判とヨーク公の宮廷登用など体制刷新を携えイギリス国内でケントの反乱が起こりロンドンを制圧する。ヘンリー6世は一時ウォリックシャーへ逃亡するが数日間でロンドンは再び王の手に返す。
  • 1450年: 9月、ヨーク公がアイルランドから帰国し政治改革を主張。ヨーク公は王に危害を加えず側近の処罰や恣意的政治の撤回を求め、議会も彼の運動を支持したが、ヘンリー6世とサマセット公(サフォーク公に代わり側近となっていた)は要求を拒絶する。
  • 1451年: 議会を解散してサマセット公が国王と王妃の支持を得て専制政治を継続する。
  • 1452年: 1月、ヨーク公はヘンリー6世へ不満事項と宮廷一派への要求を記したリスト(サマセット公の逮捕も含む)を提示し、シュロップシャーのラドロー城で挙兵する。
  • 1451年: アキテーヌの都市ボルドーがフランス軍に奪取され、ヘンリー2世の時代からイングランドの占領下にあったアキテーヌ公領がフランス側の手に陥ちる。
  • 1452年: 3月、ヘンリー6世はヨーク公の要求に同意して和睦し、ヨーク公は軍隊を解散しヘンリー6世に挙兵をしないことを誓ったが、王妃マーガレットがサマセット公の逮捕を阻止すべく干渉してサマセット公は変わらず国王の下で専制を続け、王妃が懐妊した事で宮廷派は結束力を強め、ヨーク公は劣勢を強いられる。
  • 1452年: サマセット公が挽回を期して派遣したシュルーズベリー伯ジョン・タルボット率いるイングランド軍はアキテーヌに進攻してボルドーを奪還し、いくらかの軍事的成功を収める。
  • 1453年: 百年戦争・カスティヨンの戦いでイングランド軍が敗北し、シュルーズベリー伯は戦死、ボルドーは再び奪われ、大陸におけるイングランドの拠点はカレーを残すのみとなる。この時点で百年戦争は事実上の終結する。大陸領を最悪の形で喪失したことはサマセット公の評判を著しく下降させたばかりか、後ろ盾であったヘンリー6世の精神錯乱をもたらし政権基盤も弱体化、ヨーク公の逆襲が開始され内乱を招く元となる。
  • 1453年: ヘンリー6世は精神疾患に陥る。ヘンリー6世が統治不能に陥るとサマセット公の独裁を恐れる評議会は直ちにヨーク公へ助力を要請、承諾したヨーク公は評議会入りして政権へ参加、政敵サマセット公を11月にロンドン塔へ投獄する。
  • 1453年: 王妃は息子の王位継承権を守るため摂政就任を評議会に要求したが却下され、ヨーク公が1454年3月に護国卿として摂政の座に指名される。
  • 1454年: ヘンリー6世が正気を取り戻し、サマセット公エドムンド・ボーフォートを釈放させる。
  • 1455年: 1月、ヨーク公の護国卿解任を始めヨーク派が官職を追われ、復帰したサマセット公が権力を振りかざしてヨーク派の政策が否定される従来の路線に逆戻りさせる。
  • 1455年: 3月、ヘンリー6世はヨーク派を反逆罪に問うことを決意、危機感を抱いたヨーク派は軍勢を集め、ヘンリー6世・サマセット公らランカスター派も対抗して軍を増強する。
  • 1455年: 5月、バラ戦争勃発。ソールズベリー伯リチャード・ネヴィル、ウォリック伯リチャード・ネヴィルらヘンリー6世の治世下で実力を増していた不平貴族達はヨーク公の要求(始めは摂政位、後に王位自体に対する要求)を支持することで積極的に事態に関与した。
  • 1455年: 5月、バラ戦争・第一次セント・オールバンズの戦いでランカスター派は大敗、ヘンリー6世は捕らえられ、サマセット公とノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーは戦死した。
  • 1455年: 11月、ヨーク公はヘンリー6世をロンドンへ連れ戻し、ヨーク公が護国卿に再任されてヨーク派政権が再度成立したが、王妃マーガレットがサマセット公に代わり宮廷を支配してヨーク公と対立する。
  • 1456年: ヨーク公は護国卿を辞任したが、ヘンリー6世はヨーク派の官職を留任させ評議会出席も許すなど宥和に当たった。王妃マーガレットは宮廷をコヴェントリーへ移動し、軍事力強化に努め、ヨーク公も地方へ出向き紛争調停で勢力拡大を図る中、ヘンリー6世は次第に無気力となり信仰に捧げるようになっていった。
  • 1459年: バラ戦争・ブロア・ヒースの戦いでソールズベリー伯リチャード・ネヴィル率いるヨーク派が勝利する。
  • 1460年: バラ戦争・ノーサンプトンの戦いでヘンリー6世はヨーク派に捕らえられる。
  • 1460年: バラ戦争・ウェイクフィールドの戦いで王妃マーガレットはヨーク公リチャード・プランタジネットとソールズベリー伯を討ち取った。ヨーク公の長男マーチ伯エドワード(のちのエドワード4世)とウォリック伯は戦いを続ける。
  • 1461年: バラ戦争・第二次セント・オールバンズの戦いで王妃マーガレットは勝利しヘンリー6世を救出する。
  • 1461年: バラ戦争・モーティマーズ・クロスの戦いでランカスター派を破ったマーチ伯エドワードがロンドンへ入城し、ランカスター派は北へ撤退する。
  • 1461年: マーチ伯がエドワード4世としてイングランド王に即位し、ヘンリー6世は実質的に退位させられた。
  • 1461年: バラ戦争・タウトンの戦いは、死傷者2万を超える(恐らく約3万人)英国内の戦闘としては最も血なまぐさい戦いであった。エドワード4世率いるヨーク派はサマセット公ヘンリー・ボーフォート率いるランカスター派に勝利するが、王妃マーガレットとヘンリー6世、それからサマセット公は北のスコットランドに逃亡した。
  • 1464年: バラ戦争・ヘクサムの戦いでモンターギュ侯率いるヨーク派がサマセット公ヘンリー・ボーフォート率いるランカスター派に勝利しランカスター派の抵抗の終焉となった。
  • 1465年: ヘンリー6世はランカシャーのクリズローで捕えられ、ロンドン塔に監禁される。
  • 1470年: エドワード4世と仲違いしたウォリック伯とクラレンス公ジョージ・プランタジネット(エドワード4世の弟)は、フランス王ルイ11世の後押しで、フランスへ亡命していた王妃マーガレット秘密同盟を結ぶ。
  • 1470年: ウォリック伯リチャード・ネヴィルは自分の末娘アン・ネヴィルをヘンリー6世と王妃マーガレットの息子エドワード・オブ・ウェストミンスターと結婚させる。
  • 1470年: ウォリック伯とクラレンス公はイングランドに戻り、エドワード4世をブルゴーニュへ追い落とす。
  • 1470年: ウォリック伯はヘンリー6世を復位させたが、ヘンリー6世は5年間の幽閉で何も認識出来ない状態だったため、ウォリック伯とクラレンス公がヘンリー6世の名の下で事実上の統治を行った。
  • 1471年: ウォリック伯がブルゴーニュに宣戦を布告したため、ブルゴーニュ公シャルル(軽率公)はエドワード4世に王位奪還に必要な軍事的支援を与えることでそれ応じた。エドワード4世がイングランドに上陸し、クラレンス公を寝返らせ、ロンドンに入場してヘンリー6世を捕らえ復位を果たす。
  • 1471年: バラ戦争・バーネットの戦いでウォリック伯はエドワード4世に破れて戦死する。
  • 1471年: バラ戦争・テュークスベリーの戦いでイングランドへ到着したマーガレットらランカスター派とヨーク派が衝突。ヨーク派が決定的な勝利を収め、ヘンリー6世と王妃マーガレットの皇太子エドワード・オブ・ウェストミンスターは処刑された。マーガレットは数年間捕虜となった後フランスへ送られ、ランカスター派は崩壊しヨーク派の支配が確立された。
  • 1471年: ロンドン塔に幽閉されていたヘンリー6世は49歳で亡くなる。ヘンリー6世はチェルトシー寺院に埋葬された後、1485年にウィンザー城のセント・ジョージチャペルに移された。

ヘンリー6世の最後

エドワード4世寄りの公的年代記「Arrival」によると、テュークスベリーの戦いとエドワード皇太子の死の知らせを聞き、鬱病になって死んだとされるが、エドワード4世が暗殺を命じたのではないかと広く疑われている。
1世紀以上の後、シェイクスピアの史劇「リチャード三世」は、エドワード4世の弟グロスター公リチャード(後のリチャード3世)を下手人として描いている。

ヘンリー6世が登場する作品

ホロウ・クラウン/嘆きの王冠

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ジャンヌ・ダルク THE MESSENGER: THE STORY OF JOAN OF ARC

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