ボヘミア
ボヘミア王国紋章 ©Public Domain

ボヘミア


ボヘミア

  • 9世紀〜 ボヘミア公国
  • 12世紀〜 ボヘミア王国
  • 14世紀〜 ボヘミア王国 ルクセンブルク朝/フス戦争
  • 16世紀〜 ハプスブルク帝国支配下
  • 1918年 チェコスロバキア共和国
  • 1939年 ベーメン・メーレン保護領
  • 1945年 チェコスロバキア ベネシュ布告
  • 1993年 チェコ共和国

ボヘミア

現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。チェコ名:チェヒ、ドイツ名:ベーメン。東のモラビアとともにチェコを構成。豊かな農地と鉱産資源に恵まれ、同国の政治、経済、産業の中心地。ボヘミアの呼称は、紀元前400年以前からこの地に居住したケルト系のボイイ人に由来する。

ボイイ人は紀元前8年までにゲルマン系のマルコマンニ族に駆逐されたが、1世紀の初め頃から、新しくスラブ諸族が侵入してきて次第にマルコマンニ族にとってかわった。6世紀に遊牧民族のアバール人に席捲せっけんされたが、7世紀にサモ国、9~10世紀に大モラビア国などスラブ族の原初国家が建設された。
10世紀にチェコ系のプシェミスル家が支配するボヘミア公国(のちのボヘミア王国)が成立した。この王国は神聖ローマ帝国の構成部分として栄えたが、14世紀に同朝は断絶、ルクセンブルク朝の支配に代った。ルクセンブルク家の諸王は、ボヘミアの版図をシレジア(シュレジエン)、ラウジツ、モラビアなどにまで拡大し、さらに神聖ローマ皇帝を兼ね、中世ボヘミアの最盛期を現出させた。 ヤン.フスの登場とともにボヘミアはヨーロッパの新教運動の中心となり、15世紀にルクセンブルク家が断絶したのち、フス教徒の選挙王やポーランドのヤギェウォ朝の諸王の支配が続いたが、16世紀に初めてハプスブルク家の王を迎え、国内新教徒との対立が深刻となった。1618年の新教徒の反乱が、3年後のワイセルベルクの戦いで敗北したのち、ボヘミアの支配者階級はハプスブルク家によって徹底的にドイツ化された。ようやく 1848年にパリの二月革命に呼応して反ハプスブルク蜂起が勃発し、以後チェコ人の民族意識が急速に覚醒し、1918年にモラビア、スロバキアとともにチェコスロバキアとして独立、1993年チェコスロバキアの分離に伴い、チェコの一部となった。

参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2017

歴史

古代

古代にはボイイ人がボヘミアからモラヴィア、スロバキアにかけての地域に住んでいた。

紀元前9年、大ドルスス率いるローマ軍団がマルコマンニをボヘミアに追いやった。マルコマンニ王のマルボドゥウスの治世下では、同じゲルマン系で北方のケルスキ族のアルミニウスと不仲であった為、トイトブルク森の戦いには参加せず、中立を保った。マルボドゥウスの死後、強大化したマルコマンニはマルクス=アウレリウス=アントニヌスコンモドゥスの治世下でマルコマンニ戦争(162年 – 180年)を起こし、ローマ帝国衰退のきっかけとなった。

567年、アヴァールがパンノニア平原にアヴァール可汗国を建国すると、その侵攻を受け、6世紀以降、西スラヴ人が移住し、モラヴィアの西スラヴ人とともに現在のチェコ人となった。7世紀始めにサモ王国(623年-658年)が建国された。

ボヘミア公国・ボヘミア王国

プシェミスル家

9世紀頃にプシェミスル家のもとで公国を形成した。10世紀以降はローマ帝国に属して政治的に現在のドイツと結びついた。(1003-1004年にピャスト朝を挟む。)
1198年にオタカル1世(ボヘミア王)はローマ帝国領内では当時まだほとんど存在しなかった王号をもつボヘミア王となり(ボヘミア王国、1198〜1918)、高いステータスを獲得するが王権は弱く、実質上は歴代の王の後ろ盾となったローマ皇帝などのドイツ人勢力の傀儡として存在した。

チェコ及びボヘミアは、その地理的な重要性から中世から近世にかけては「ボヘミアを征する者は、ヨーロッパを征す」とも言われた。
1241年、モンゴル帝国がポーランドに侵攻した際には、ボヘミア軍を送り支援したが、東隣のモラヴィアのオロモウツまでモンゴル軍に迫られた(オロモウツの戦い)。
1245年にはガリツィア軍にポーランド王国・ハンガリー王国が加わり、ヨーロッパ側の最前線であったハールィチ・ヴォルィーニ大公国(現在のウクライナ。当時、ルーシと呼ばれた地方)へ侵攻して属国化した(ヤロスラヴの戦い)。
1246年 ライタ川の戦いでハンガリー王国のベーラ4世とハールィチ・ヴォルィーニ大公国の連合軍が、フリードリヒ2世(オーストリア公)を敗死させる。
1248年 バーベンベルク家の断絶につけこんだボヘミア王オタカル2世(ボヘミア王)がオーストリアなどの支配権を獲得。
1260年 クレッセンブルンの戦いでハンガリー王国のベーラ4世がオタカル2世(ボヘミア王)に敗れる。
1278年 マルヒフェルトの戦いで、オタカル2世(ボヘミア王)は、ローマ王ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)ラースロー4世(ハンガリー王)の連合軍に敗れ、ハプスブルク家が欧州の有力な勢力となる。

ルクセンブルク朝

プシェミスル家断絶後の1310年からはドイツ貴族ルクセンブルク家がボヘミア王を受け継いだ。
カール4世(神聖ローマ皇帝)となったルクセンブルク家のカレル1世(ボヘミア王)は、1348年にプラハにプラハ大学を設立してボヘミアに学問を根付かせた。中世から近世にかけてはプラハを中心に学問、とくにキリスト教の学者が多く活躍した。

15世紀にはプラハ大学からヤン・フスが出て宗教改革に乗り出した。
1410年に始まったタンネンベルクの戦いでヤン・ジシュカ率いるボヘミア義勇隊が、それまでチェコを実質支配していたドイツ人を追放し、ポーランドのフス派プロテスタントと協力して戦い抜いたことはスラヴ民族主義の萌芽として注目される。
外圧により1415年にフスがジギスムント(神聖ローマ皇帝)に処刑されて宗教改革が失敗に終わると、1419年の第1次プラハ窓外投擲事件をきっかけにフス戦争が始まった。

ハプスブルク家

16世紀からはルクセンブルク家断絶後にその所領を獲得したハプスブルク帝国の支配を受けた。

三十年戦争(1618〜1648)では、1620年には白山の戦いでハプスブルク軍相手にたった半日で敗北した結果、チェコのスラヴ人貴族は完全に根絶され、ドイツ人貴族のみとなった(チェコ貴族の入れ替え)。
コメニウスの属したモラヴィア兄弟団というプロテスタントの一派が三十年戦争でこの地を追われ、二度とここに戻ってくることができなかったことはヨーロッパの精神史の中でよく知られた事件である。三十年戦争後期にスウェーデンに占領された。
1648年、ヴェストファーレン条約によってハプスブルクに返還され、絶対王政下に置かれた。しかし、この戦争を経て、金融センターであるイギリスとオランダへ接近したことには注意が必要である。
19世紀にはオーストリア帝国(ハプスブルク家)の一部となった。19世紀前半にはチェコ人の民族運動が盛り上がってしだいにドイツ人から自立しようとする動きが高まった。
1899年、ボヘミアはモラヴィアをともないオーストリア・ハンガリーに反乱した。翌年にかけてウィーンの手形交換所はその交換総額を倍以上に増やした。

チェコスロバキア

1918年10月28日に1004年以来914年ぶりにようやくドイツ人の支配から離れチェコスロバキアとして独立すると、新たに独立したチェコスロバキアの中心地域となった。翌10月29日にはドイツ人帝国議会議員らがエーガラントと北ボヘミアをドイツ系ボヘミア州とする宣言。10月30日にはシレジア、北モラヴィア、東部ボヘミアに「ズデーテンラント州」が形成された。

1918年11月に成立したドイツ・オーストリア共和国政府(第一共和国(オーストリア))は、ドイツボヘミア州、ズデーテンラント州、オーバーエスターライヒ州に区分し、領有権を主張していた。11月には南部ボヘミアと南部モラビアでベーマーヴァルト(Böhmerwald)とツナイム(Zneim)の両自治政府が作られたが、11月20日にはチェコ軍団がドイツ系諸政府域への侵攻を開始し、12月18日までにドイツ系諸政府は解体された。

ドイツ

1938年9月30日のミュンヘン会談では宥和政策を取るイギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相がズデーテン地方(ボヘミア・モラヴィア・シレジア(現在のチェコ共和国の領域)の外縁部にあたる、ドイツ人が多く居住していた区域。)のドイツ編入を容認した。1939年3月1日にチェコスロバキアが解体され、ベーメン・メーレン保護領となった。
1945年2月のヤルタ会談でソ連の要求によりドイツ人強制移住方針が固まった。

チェコスロバキア

1945年5月、ベネシュ布告。8月2日のポツダム協定でドイツ人追放が正式決定。1990年10月30日にドイツ再統一。

チェコ

1993年にスロバキアと分離し、チェコとなった。
1997年1月21日、ドイツ=チェコ和解宣言。

ボヘミア王一覧

ボヘミアでは9世紀頃にプシェミスル家の君主がボヘミア公となり、10世紀に神聖ローマ帝国に服属する。11世紀から12世紀には神聖ローマ帝国の中で王号を許された特別の地位を得て、「ボヘミアを征する者はヨーロッパを征す」と言われた。ボヘミア国王は1289年からは選帝侯の一人となった。
プシェミスル家が13世紀に断絶した後、婚姻政策によってルクセンブルク家が王位を世襲するが、これもフス戦争の渦中で断絶する。その後はハプスブルク家の支配下に入り、第一次世界大戦による帝国崩壊でチェコスロバキアの一部として独立するまで、ハプスブルク帝国の構成国として続く。

参考 Wikipedia

プシェミスル家

  • オタカル1世(ボヘミア王)(1197年 – 1230年)
  • ヴァーツラフ1世(ボヘミア王)(1230年 – 1253年)
  • オタカル2世(ボヘミア王)(大王)(1253年 – 1278年) – オーストリア公
  • ヴァーツラフ2世(ボヘミア王)(1278年 – 1305年) – ポーランド王
  • ヴァーツラフ3世(ボヘミア王)(1305年 – 1306年) – ポーランド王、ハンガリー王

内乱期

  • インジフ・コルタンスキー(ケルンテン公)(1306年、1307年 – 1310年) – ケルンテン公
  • ルドルフ1世(ボヘミア王)(1306年 – 1307年) – オーストリア公

ルケンブルコヴェ家

  • ヨハン・フォン・ルクセンブルク(ボヘミア王)(1310年 – 1346年) – ルクセンブルク伯
  • カール4世(神聖ローマ皇帝)(1347年 – 1378年) – ローマ皇帝、ルクセンブルク伯カレル1世
  • ヴェンツェル(神聖ローマ皇帝)(1378年 – 1419年) – ローマ王、ブランデンブルク選帝侯、ルクセンブルク公ヴァーツラフ4世
  • ジギスムント(神聖ローマ皇帝)(1419年 – 1437年) – ローマ皇帝、ブランデンブルク選帝侯、ハンガリー王、ルクセンブルク公ジクムント

ハプスブルク家

  • アルブレヒト2世(神聖ローマ皇帝)(1438年 – 1439年) – ローマ王、オーストリア公、ハンガリー王
  • ラディスラウス・ポストゥムス(ボヘミア王)(1453年 – 1457年) – オーストリア公、ハンガリー王ラジスラフ・ポフロベク

フス派の王

  • イジー・ス・ポジェブラト(ボヘミア王)(1458年 – 1471年)
    マーチャーシュ1世(ボヘミア対立王)(対立王:1469年 – 1490年) – ハンガリー王マティアス1世・コルヴィン

ヤゲロンキ家

  • ウラースロー2世(ボヘミア王)(1471年 – 1516年) – ハンガリー王ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー
  • ラヨシュ2世(1516年 – 1526年) – ハンガリー王ルドヴィーク

ボヘミア王(ハプスブルク帝国)

ラコウスティ・ハプスブルコヴェ家

  • フェルディナンド1世(神聖ローマ皇帝)(1526年 – 1564年) – 神聖ローマ皇帝
  • マクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)(1564年 – 1576年) – 神聖ローマ皇帝
  • ルドルフ2世(神聖ローマ皇帝)(1576年 – 1612年) – 神聖ローマ皇帝
  • マティアス(神聖ローマ皇帝)(1612年 – 1619年) – 神聖ローマ皇帝
    フリードリヒ5世(プファルツ選帝侯)(1619年 – 1620年) – プファルツ選帝侯(プファルツ=ジンメルン家)
  • フェルディナンド2世(神聖ローマ皇帝)(1620年 – 1637年) – 神聖ローマ皇帝
  • フェルディナンド3世(神聖ローマ皇帝)(1637年 – 1646年) – 神聖ローマ皇帝
  • フェルディナンド4世(ローマ王)(1646年 – 1654年) – ローマ王(帝位継承前に死去)
  • レオポルト1世(神聖ローマ皇帝)(1657年 – 1705年) – 神聖ローマ皇帝
  • ヨゼフ1世(神聖ローマ皇帝)(1705年 – 1711年) – 神聖ローマ皇帝
  • カール6世(神聖ローマ皇帝)(1711年 – 1740年) – 神聖ローマ皇帝
    カール7世(神聖ローマ皇帝)(1741年 – 1743年) – 神聖ローマ皇帝、バイエルン選帝侯(ヴィッテルスバッハ家)
  • マリア・テレジア(1743年 – 1780年) – オーストリア大公、ハンガリー女王

ハプスブルスコ=ロートリンスカ家

  • ヨーゼフ2世(1780年 – 1790年) – 神聖ローマ皇帝
  • レオポルト2世(神聖ローマ皇帝)(1790年 – 1792年) – 神聖ローマ皇帝
  • フランツ2世(神聖ローマ皇帝)(1792年 – 1835年) – 神聖ローマ皇帝、オーストリア皇帝
  • フェルディナント1世(オーストリア皇帝)(善良王)(1835年 – 1848年) – オーストリア皇帝
  • フランツ・ヨーゼフ1世(1848年 – 1916年) – オーストリア皇帝、ハンガリー王
  • カール1世(オーストリア皇帝)(1916年 – 1918年) – オーストリア皇帝、ハンガリー王

参考 Wikipedia

広告