ルノー・ド・シャティヨン
「キングダム・オブ・ヘブン」 ルノー・ド・シャティヨン 役

ルノー・ド・シャティヨン


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ルノー・ド・シャティヨン (Renaud de Châtillon)  (1125年頃-1187年7月4日)。
フランスの騎士。1147年に第2回十字軍に参加し、1153年にアンティオキア公国のコンスタンス女公と結婚し、アンティオキア公となる。
ヒッティーンの戦いで捕らえられ、サラーフッディーン自ら彼を処刑したといわれる。対イスラム強硬派としてキリスト教穏健派、イスラーム徒両方から嫌われた。

ルノー・ド・シャティヨン

サラディンがルノー・ド・シャティヨンを処刑した理由

ルノー・ド・シャティヨンはボードゥアン4世とサラーフッディーンの間に和平が結ばれたにもかかわらず、1181年にメディナを襲う姿勢を見せた。進軍中に牽制を受けて退却したが、隊商から200,000枚の金貨を略奪し、ボードゥアン4世の返還命令を拒絶した。1182年冬/1183年1月にメッカ・メディナに向けて進軍し、紅海貿易を掌握するために艦隊を出動させる。しかし、ルノー・ド・シャティヨンの艦隊はアイザーブ沖でエジプト軍に撃破され、生き残った170人の捕虜はカイロで処刑された。

これに怒ったサラーフッディーンは、1183年にカラク城で行われていたルノーの義理の息子であるオンフロワとイェルサレム王女イザベルとの結婚式を襲撃した。カラクはサラーフッディーンの弟アル=アーディルの包囲を受けたが、天然の要害であるカラクは1か月を越える包囲に持ちこたえた。1184年7月にカラクはサラディン、アーディルによって再び包囲を受けたが、援軍の到着によって窮地を脱した。イェルサレム王ボードゥアン4世の救援でカラク城は救われたものの、立場が弱くなったルノーはギー・ド・リュジニャンと連携し、トリポリ伯レーモン3世と対抗した。

1187年にルノーはイスラーム徒の商人への襲撃を再開し、多くの捕虜をカラクに連行する。サラーフッディーンはルノーの行為を非難し、捕虜の釈放と戦利品の返還を要求したが、ルノーは使者との面会を拒絶した。1187年3月にジハード(聖戦)を宣告したサラーフッディーンがパレスチナに進軍した後、ルノーはギー、レーモンらと合流する。7月4日のヒッティーンの戦いでギーが率いる十字軍は大敗し、ルノーはギーとともに捕らわれた。ルノーとギーはサラーフッディーンの前に引き出され、ギーは生命の安全を保障されたが、ルノーは以前からの数々の背信行為を非難された後、サラーフッディーンの手によって断首された。

ルノー・ド・シャティヨンが登場する映画

キングダム・オブ・ヘブン

ルノー・ド・シャティヨン - キングダム・オブ・ヘブン
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