ロマノフ朝
ロマノフ朝紋章 Wikipedia

ロマノフ朝


Previous Post

Next Post

ロマノフ朝( A.D.1613〜A.D.1917)
1613年にロマノフ家のミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位して成立したロシアの王朝。北方戦争に勝利したピョートル1世(位1682〜1725)は、新都ペテルブルクを建設し、1721年に「インペラトール」を名乗り、「ロシア帝国」が成立し東欧の最強国となった。1917年にロシア革命で滅亡。

ロマノフ朝

世界史対照略年表(1300〜1800)
/>世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ

ヨーロッパ主権国家体制の展開

17世紀前半は、「ヨーロッパの全般的危機」のもとで、スペインの衰退、ピューリタン革命名誉革命とつづくイギリスの内乱と混乱、宗教戦争後ブルボン朝のもとで絶対王政を固めつつあったフランスのフロンドの乱、ドイツにおける三十年戦争など動揺が続いた。しかし、17世紀後半フランスではルイ14世(フランス王)のもとで強力な絶対王政が出現した。イギリスでは名誉革命をへて、議会政治が確立された。三十年戦争が集結したドイツでは、プロイセン、オーストリアが絶対王政国家として力をのばしつつあった。18世紀にはロマノフ朝ロシアがこれに続いた。一方、絶対王政のもとでバロックロココなど華やかな宮廷文化・貴族文化が形成され、学問でも近代ヨーロッパの思想・科学の基礎が確立した。

ヨーロッパ主権国家体制の展開 – 世界の歴史まっぷ

危機の時代の主権国家

ロシアの台頭
ロマノフ朝 ロシアの領土拡大地図 ロシアの台頭
ロシアの領土拡大地図 ©世界の歴史まっぷ

17世紀初めになると、イヴァン4世の血統が絶え、政情が混乱した。農民や都市貧民のなかには、役人や領主の支配を嫌って南部国境付近のドン川流域に移り、コサックの集団に身を投じるものも少なくなかった。以後ロシアでは、農民反乱のたびにこのコサックの集団が重要な役割を演じることになる。

政治の混乱そのものは、1613年ミハイル・ロマノフ(位1613〜1645)が帝位につき、ロマノフ朝(1613〜1917)が開かれたことでようやく収拾された。17世紀中ごろになると混乱期に失った領土の回復を求めて、2度にわたる対ポーランド戦争を戦い、西部領土を回復したばかりか、ウクライナの一部をも獲得する。しかしこれらの戦争は、国民の生活を圧迫し、ステンカ・ラージンの反乱(?〜1671)などを引き起こした。

ステンカ・ラージンの反乱

ドン・コサックの指導者(アタマン)であったラージンは、逃亡農民などからなる下層のコサックを率いて、1667年、反乱を開始。政府や商人の船を襲い、奴隷を解放した。カスピ海沿岸のアストラハンを占領したのち、モスクワをめざしてヴォルガ川を北上した。反乱軍には、重税に苦しめられていた農民や少数民族が加わり、大農民戦争となったが、結局、ツァーリの軍隊に敗れ、ラージンは処刑された。しかし、彼の名は英雄として民衆の間に長く伝えられた。

17世紀末に即位したピョートル1世(ピョートル大帝 位1682〜1725)は、武器の製造技術、造船技術など西欧の科学や技術を熱心に導入し、内政改革、とくに軍備の強化、税制の改革、産業の振興に努めた。

ピョートル大帝は、身分を隠してみずからイギリスやオランダを訪れ、風俗や大鳳の製造、造船などの技術を学び、帰国後は、貴族に西欧風の生活様式を強制した。ユリウス暦を採用したほか、学校・新聞・海軍士官学校などを創設し、西欧社会に追いつこうとした。

他方では、農奴制をいっそう強固にしたので、皇帝権はますます強化された。対外的には、オスマン帝国に対抗する同盟関係を推進し、シベリア経営をさらに進め、1689年には清朝とネルチンスク条約を結んで、黒竜江の北の外興安嶺とアルグン川を結ぶ線に国境を画定し、通商を拡大した。

ピョートル1世
ピョートル1世(ポール・ドラローシュ画/ハンブルク美術館蔵)©Public Domain

ロシアの近代化を進めたこのツァーリも、幼年期は異母姉のソフィアの陰謀に苦しめられ、最初の妻エウドキアとは対立して息子のアレクセイを死に追いやるなど、家庭的には不幸であった。

1700年に始まったスウェーデンとの大北方戦争は、21年におよんだ。はじめのうちロシア軍は優勢なスウェーデン軍にナルヴァの戦いで大敗したが、西欧の技術を導入したピョートルの改革が功を奏してもりかえし、1709年のポルタヴァの戦い以後は優勢となり、念願のイングリア、エストニア、リヴォニアを獲得して、バルト海東岸に進出した。

この長期の戦争は結局、1721年の二スタット条約によってロシアの勝利となって終わった。ピョートルはこの間に、バルト海に面するネヴァ川の河口に「西欧への窓」となる都市サンクト・ペテルブルクを建設して、ここに首都を移した。これ以後、ロシアは東欧の最強国として、ヨーロッパ国際政治の舞台に台頭する。

18世紀後半になると、女帝エカチェリーナ2世(位1762〜1796)が頭位した。啓蒙専制君主として、ヴォルテールらとも親交のあったエカチェリーナ2世は、国内では、特権を認可して貴族と協力関係を強め、都市にも自治権を与え、経済活動の促進をはかったが、農奴制には手をつけなかった。

それどころか、プガチョフ(1742〜1775)の率いる大農民反乱(プガチョフの乱 1773〜1775)を鎮圧したのちは、かえって農奴制を拡大・強化した。とくにフランス革命勃発後は、反動的になって自由主義思想を弾圧したといわれている。アメリカ独立戦争では武装中立同盟を提唱したほか、南方では2度にわたってオスマン帝国と戦って、クリミア半島など黒海沿岸を奪った。この結果、黒海はロシアの内海となった。

プガチョフの乱

貧しいどん・コサック出身のプガチョフは、七年戦争やロシア・トルコ戦争に従軍したが、逃亡をくりかえし、殺害されたピョートル3世を自称して、ヴォルガ流域の貧しいコサックや農民などを率いて大反乱をおこした。この反乱は、政府と貴族に大きな衝撃となったものの、結局、鎮圧され、プガチョフは処刑された。

この時代のロシアは、東方でもベーリング海峡を超えてアラスカにまで進出し、日本にも外交使節ラクスマンアダム・ラクスマン 1766〜1796以後)を送るなどした。また西方では、3度にわたって、プロイセン、オーストリアとポーランド分割をおこない、自国領土の拡大に成功した。

ロシアの台頭 危機の時代の主権国家 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

歴代ツァーリ

  1. ミハイル・ロマノフ(1613年 – 1645年) – フョードル1世の義理の従弟
  2. アレクセイ(モスクワ大公)(1645年 – 1676年) – ミハイルの子
  3. フョードル3世(1676年 – 1682年) – アレクセイの子
  4. イヴァン5世(1682年 – 1689年) – フョードル3世の弟
  5. ピョートル1世(1682年 – 1725年) – 1721年「インペラトル(皇帝)」に戴冠 – イヴァン5世の弟
    西欧化を進めながら、スェーデンとの北方戦争を戦う。また東方への進出を進める。バルト海に面したペテルスブルクを建設し遷都した。
  6. エカチェリーナ1世(1725年 – 1727年) – ピョートル1世の皇后
  7. ピョートル2世(1727年 – 1730年) – ピョートル1世の孫
  8. アンナ(ロシア皇帝)(1730年 – 1740年) – イヴァン5世の子
  9. イヴァン6世(1740年 – 1741年) – ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家、アンナの姪の子
  10. エリザヴェータ(ロシア皇帝)(1741年 – 1762年) – ピョートル1世とエカチェリーナ1世の娘
  11. ピョートル3世(1762年1月5日 – 6月28日)- ホルシュタイン=ゴットルプ家、エリザヴェータの甥
  12. エカチェリーナ2世(1762年 – 1796年) – ピョートル3世の皇后(アンハルト=ツェルプスト家)
    啓蒙専制君主として全盛期を迎える。ポーランド分割に加わり領土を拡大。
  13. パーヴェル1世(1796年 – 1801年) – ピョートル3世とエカチェリーナ2世の子
  14. アレクサンドル1世(1801年 – 1825年) – パーヴェル1世の長男
    ナポレオンの侵入を撃退。ウィーン体制時代には保守勢力の中心として、ヨーロッパの民族運動、自由主義運動を弾圧、「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれる。晩年に自由主義を掲げた青年将校のデカブリストの反乱が起きる。
  15. ニコライ1世(1825年 – 1855年) – パーヴェル1世の3男
    クリミア戦争で西欧諸国と戦ったが敗れる。この敗北はツァーリズムの後進性を明らかにし、政治・社会の改革の必要に迫られることとなった。
  16. アレクサンドル2世(1855年 – 1881年) – ニコライ1世の長男
    農奴解放令の発布などの改革を実施する一方、ナロードニキ運動などを弾圧して国力の回復を図り、露土戦争など南下政策を再開させた。しかしその強攻策は東方問題として列強との対立を強め、国内の矛盾も強まって革命運動も激化し、アレクサンドル2世自身がテロで倒された。
  17. アレクサンドル3世(1881年 – 1894年) – アレクサンドル2世の次男
  18. ニコライ2世(1894年 – 1917年) – アレクサンドル3世の長男
    19世紀末から20世紀にかけて、帝国主義の抗争が激しくなると、極東への進出を強め、満州をめぐって日本と対立し、1905年日露戦争となった。その最中に第1次ロシア革命が起こった。しかし改革も不十分なまま第1次世界大戦に参戦し、その長期化とともに社会矛盾が激化して大戦中の1917年に第2次ロシア革命が起こり、ニコライ2世は家族とともに処刑されてロマノフ朝は滅亡する。
  • ミハイル・アレクサンドロヴィチ(1878-1918)(1918年3月2日 – 1918年3月3日) – ニコライ2世の弟(ニコライ2世の退位後、皇位を譲られたが1日で退位)

ロシア革命以後のロマノフ家当主

  1. ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ(1847年 – 1909年)
    アレクサンドル2世の三男。ロシア革命以前に没しており、帝位を請求したことはない。
  2. キリル・ウラジーミロヴィチ(1876年 – 1938年)
    ウラジーミルの息子。1924年9月13日にロシア皇帝位の継承を宣言。以下キリルの息子・娘に名目上の皇位が継承されている。
  3. ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフ(1917年 – 1992年)
    キリルの息子。
  4. マリア・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァ(1953年 – )
    ウラジーミルの娘。夫はミハイル・パヴロヴィチ(ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) の曾孫フランツ・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン)
  5. ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフ(1981年 – )
    マリアとフランツの間の息子。ロシア皇帝位継承権第1位であると共に、ドイツ皇帝位およびプロイセン王位継承権第8位である。

参考 Wikipedia

広告
Previous Post

Next Post