七支刀
七支刀(Wikibedia

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七支刀しちしとう 4世紀頃、倭に対し百済朝貢した際に献上されたものとみられている。
古代倭王家に仕えた豪族物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市の 石上神宮に伝来した鉄剣。全長74.8cm。
1953年(昭和28年)、国宝に指定。

七支刀

奈良県天理市の石上神宮所蔵の神宝で、刀身の両側に6枝を出した鉄製の両刃の剣。369年、百済王の太子が倭王のためにつくったとする金象眼の61字の銘文が刻まれている。

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銘文

浜田耕策による解釈

泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥
太和(泰和)四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練った□の七支刀を造った。この刀は出でては百兵を避けることが出来る。まことに恭恭たる侯王が佩びるに宜しい。永年にわたり大吉祥であれ。

先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世
先世以来、未だこのような(形の、また、それ故にも百兵を避けることの出来る呪力が強い)刀は、百済には無かった。百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝に寄せることとした。それ故に、東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を倭王とも共有しようとこの刀を「造」った。後世にも永くこの刀(とこれに秘められた東晋皇帝の旨)を伝え示されんことを。

日本書紀の記述

五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口、七子鏡一面及種種重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及。當飲是水、便取是山鐵以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通東海貴國、是天所啓、是以垂天恩、割海西而賜我、由是國基永固。汝當善脩和好、聚斂土物、奉貢不絕、雖死何恨。」自是後、每年相續朝貢焉。
神功皇后52年(372年)秋9月10日、百済の使である久氐くていらは千熊長彦に従って来倭し、七支刀ななつさやのたち七子鏡ななつこのかがみ、及び種々の重宝を倭国へ奉った。
「臣(百済)の西に河があり、水源は谷那こくな鉄山かねのむれから出ています。その遠いことは七日間でも行き着きません。まさに、この河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすら聖朝ひじりのみかどに奉ります。」と言った。

神功皇后52年は252年とも計算されが、紀年論では干支二巡分(120年)年代が繰り上げられているとされており、訂正すると372年となって制作年の太和(泰和)四年(369年)と符合する。

七支刀 – Wikiwandより

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