伊藤博文
伊藤博文(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

伊藤博文


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日清戦争年表(第2次伊藤内閣)

第2次伊藤内閣

1894年(明治27年)

朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに、7月に清軍と衝突、朝鮮の主権を巡って意見が対立して8月に日清戦争が起こる。
1895年(明治28年) 
4月、陸奥宗光と共に全権大使として、李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約の下関条約(馬関条約)に調印する。
戦争前に陸奥がイギリスと治外法権撤廃を明記した条約を結び、条約改正に大きく前進。
朝鮮の独立(第一条)と遼東半島の割譲などを明記した下関条約がドイツ・フランス・ロシアの三国干渉を引き起こし、第2次伊藤内閣は遼東半島の放棄を決める。
1896年(明治29年) 
8月31日、伊藤は首相を辞任する。
第3次伊藤内閣

1898年(明治31年)

1月、第3次伊藤内閣が発足。6月に衆議院を解散、閣議で政党結成の意思を表明するなど、新党結成を唱えるが、山縣有朋の反対に遭い首相を辞任。
8月、長崎を出発し、朝鮮の漢城で高宗と会見。
9月、清の北京で慶親王・康有為らと面談、戊戌変法に取り組んでいた光緒帝に謁見し、10月には張之洞・劉坤一と会談している。
北京滞在中の9月21日に保守派が決行した戊戌の政変に遭遇、その時の状況と戸惑いを日本の梅子夫人に書き送っている。
1899年(明治32年)
4月から10月まで半年かけて全国遊説を行い、政党創立の準備と民衆への立憲体制受け入れを呼びかけている。
第4次伊藤内閣

1900年(明治33年)

9月には立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。
10月に政友会のメンバーを大勢入れた第4次伊藤内閣が発足するが、政党としての内実が整わない状態での組閣だったため、内部分裂を引き起こし翌34年(1901年)5月に辞任。
政友会はその後西園寺公望・原敬らが中心となり伊藤の手を離れるが、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した。また貴族院議長に就任。

同時代の人物

カール=マルクス (1818〜1883)

ドイツの社会主義者。イギリスの人道主義的立場の社会主義やフランスの協同組合的または無政府主義的立場とはことなる社会主義理論を展開。当時の社会主義と一線を画すために共産主義と称し、ヘーゲルの弁証法を継承しつつ、唯物史観を大成し、厳密な資本主義経済の分析による社会主義社会への必然的移行を主張。『資本論』『共産党宣言』。 伊藤博文は長州五傑の一人として1863(文久3)年ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジに留学。校舎はマルクスが通い詰めた大英図書館の真裏にあった。

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