ローマ帝国 同盟市戦争 パクス・ロマーナ 共和政ローマ ポエニ戦争 共和政ローマ(身分闘争) ローマの発展 6.ローマの成立と発展 ローマ帝国 ローマの領土拡大地図 ©世界の歴史まっぷ
ローマの領土拡大地図©世界の歴史まっぷ

共和政ローマ (紀元前508年〜紀元前27年)

古代ローマにおいて、紀元前509年に専制的なエトルリア人の王を追放して貴族共和政となってから、身分闘争をへて紀元前27年の帝政の開始までの期間をさす。この時期のローマは、イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長した。

共和政ローマ

オリエントと地中海世界

ローマ世界

世界史対照略年表(前3000〜前200)
世界史対照略年表(前3000〜前200)©世界の歴史まっぷ
エトルリア
エトルリア人

イタリア半島には紀元前2千年紀には東方から移住してきた人々が青銅器文化を営んでいた。バルカン半島にドーリア系ギリシア人が南下した紀元前12世紀頃、やはりインド=ヨーロッパ語系の西方系言語を話すイタリア人もイタリア半島に南下し、定着した。ローマは半島の中央ティレニア海沿岸に定着したイタリア人の一派のラテン人が作った集落の一つから発展していった。
しかしイタリア半島に最初に文明を持ち込んだのは紀元前9世紀頃南イタリアに植民したギリシア人と、半島中央から北部にかけてヴィラノーヴァ文化を生み出したエトルリア人であった
一部のエトルリア人は紀元前7世紀末にローマを支配し、都市国家をつくらせた。エトルリア人は統一されることがなく、結局ローマに敗れて同化していく。しかし彼らが信じた神々や、重視した卜占ぼくせん、役人が用いた標識、凱旋式や剣闘士競技などはそのままローマに受け継がれた。

ローマ

ローマはティベル川流域のいくつかの丘陵のラテン人の集落として始まった。

伝説ではローマ人の祖先はトロイアの貴族アエネアスで、その子孫のロムルスが紀元前8世紀にローマを建設したとされている。

最初は王をいただく部族国家だったが、貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の別があり、貴族は土地などの所有で平民を圧倒していたが、平民は奴隷的な農民ではなかった。

ローマには、まだことのき奴隷は少なかったが、貴族たちはクリエンテスと呼ばれる半自由民を従え、農耕を行わせ、戦いには補助兵としていた。

紀元前7世紀末にエトルリア人の王によって丘の間の平地を広場(フォルム)とし、神殿・集会場などを持つ都市が形成された。

フォルムは、ギリシアのアゴラにあたり、ローマ人の政治・経済の中心の広場であった。またアクロポリスに当たるのはカピトル(カンピドリオ)の丘で、ユピテルの神殿と砦が置かれた。)

ローマの位置はティベル川の渡河地点にあたり、交通の要地であったから次第に商業が発展したが、住民のほとんどは農民であった。王政期に軍事中心の市民団組織の原型が整えられ、民会も生まれたが、紀元前509年に専制的なエトルリア人の王を追放して貴族共和政となった。

共和制ローマ(身分闘争)
ローマでは任期1年の2名の執政官コンスル)が貴族から選挙で選ばれ、軍民の最高官となり、このほか法務官や財務官などの政務官がおかれた。
従来から長老たちの会議として存在していた元老院(セナートゥス)は次第に役職経験者の終身議員から構成されるようになり、執政官を監督指導して国政の実権を握っていた。
カエサル 元老院
ローマ共和制のしくみ

平民は政治から締め出されていたが、自律的農民で、上層は重装歩兵として戦争にも参加したから、不満を持つようになった。また貧しい平民は借財に陥り、こうしては移民は貴族との間に身分闘争をおこして政治的権利の獲得を目指した。

貴族は国防上の必要を考えて譲歩し、紀元前5世紀初めに平民の権利を守って身体を神聖不可侵とされる護民官の制度を認め、平民会の設置をも許した。
紀元前450年ころには最古の成文法として十二表法も設定されて平民の権利が法によって守られるようになり、やがて貴族と平民の通婚も可能になった。

10人の委員がギリシアの法に学んで12枚の銅板に刻んで公示したという。元の法文は現存していないが、のちの史料の引用から内容は復元されている。

そして紀元前367年に制定されたリキニウス・セクスティウス法は貴族など有力者による公有地の占有(征服した敵から奪った土地をローマ国家の土地として有力者に占有させ、農業などを行わせていた。)を制限する一方、執政官の一人を平民から出すことを定め、以後ほとんどの政務官職が平民に解放されていった。

こうして紀元前287年のホルテンシウス法によって、それまでは国家の正式な民会ではなかった平民会の決議が、元老院の承認を経なくともただちに国法となることが定められて身分闘争は一応終わった。
しかしこのころには平民のうちの有力者が執政官になり、元老院に入って新貴族ノビレス)となり、政権に参加していたから、元老院が権威と実権を持つ貴族寡頭政治的なローマの政治体制は維持されており、アテネにみられたような民主政はローマでは実現しなかった。

共和政ローマの政務官職

ローマでは政務官職は上層市民が権力を目指すために不可欠の重要性をもったが、一般の市民が独占しないように官職の格差と就任順序が慣例で定められ、就任すべき年齢や次の官職につくまでの休みの期間があった。
これは「名誉の階梯かいてい」と呼ばれた。25歳くらいで財務官になり、按察官あんさつかん(神殿・市場の監督)、護民官、法務官を経た上で、しかも限られた人物が40歳くらいで執政官になれた。2度以上執政官になったり順序を経ないで若くして高級官になるのは極めて異例のことであった。

ローマの発展

共和政ローマの指導者たちは常に支配の拡大を目指し、戦争を続けた。土地の獲得や商業上の利益も目的であったが、将軍として勝利することが彼らの最も求める名誉であった。平民たちも土地や戦利品をめざして協力し、ローマは強力な重装歩兵軍でエトルリア人やラテン人、山地のサムニテス人、北方から侵入してくるガリア人、さらに南方のギリシア都市と戦い、結局紀元前3世紀前半にはほとんどを破り、イタリア半島全域を支配するに至った。

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ローマの領土拡大地図©世界の歴史まっぷ

ローマは軍事技術に優れ、軍道や植民市の建設にも熱心であった。またギリシアのポリスには見られなかった強力な支配を行った。降伏した敵の土地を奪ってローマの領域とし、市民を送り込んだのはその一例である。敵の共同体の存在を許した場合にも、ある都市には投票権のみを欠くローマ市民権を与え、他にはラテン市民権を、あるいは同盟者の地位を与えるなど、待遇に差別を設けて、彼らにより良い地位を望ませて協力させた(分割統治)。

ラテン人はローマの同族であったから、古くから通婚し商業取引も平等に行い、ローマ滞在中のラテン人は民会投票権ももち、ローマに居住すれば市民権が与えられた。この権利が一種の準市民権としてラテン人以外の民族にも与えられたのである。

植民市も軍事的拠点に次々に設けていったが、ギリシアの場合と異なり、いずれもが独立した都市ではなくローマの直接の支配下に置かれた。

ローマは有力な国家となって、ついにシチリアを支配していたフェニキア人の植民市カルタゴと衝突することになり、初めて海外に進出して3度に渡るポエニ戦争(紀元前264年〜紀元前146年)を引き起こした。

「ポエニ」は「フェニキア」の意味。カルタゴがフェニキア植民市であったためである。

第1次戦争でシチリアなどの海外領土を得たローマは、そこに総督を送って統治させ、住民からは税を徴収した。これを属州という。
カルタゴのハンニバルが反撃した第2次ポエニ戦争(紀元前218〜紀元前202)で、ローマはイタリアにカルタゴ軍の侵入を受け苦戦したが、大スキピオがスペインを制圧してカルタゴ本国を攻め、帰国して戦ったハンニバルをザマの戦いで破ってローマの勝利を導いた。
ローマは紀元前2世紀にはギリシア方面にも進出し、ギリシア都市の要請に応じてマケドニアアンティゴノス朝マケドニア)と戦った。初めはマケドニアからギリシア都市を解放して自由を与えて撤去するなど、ローマは侵略的ではなかったが、紀元前2世紀半ばからは無力なカルタゴを第3次ポエニ戦争に引き込んで滅ぼし(紀元前146年)、同じ年ギリシア都市同盟を破ってコリントスをも破壊するなど、侵略的姿勢が強まっていった。マケドニアや小アジアの一部をも属州として総督やローマの商人は属州民を激しく搾取した。このようなローマの地中海への進出はしばしば「ローマの帝国主義」といわれている。

属州からの富が流入して、イタリアのローマ市民の直接税は紀元前167年から免除された。
ローマ社会の矛盾

しだいに発展を続けるローマの社会では、市民の間の階層差が大きくなっていた。元老院議員は政治軍事指揮を担当し、戦争や属州統治によって大きな富をきずき、イタリアの公有地占有や農民からの土地の買い占めで大土地経営を行った。所領には戦争捕虜などの奴隷を投入して過酷な集団労働を行わせ、商品作物を生産した。このような大土地所有をラティフンディアと呼ぶ。

ラティフンディアとは、「広い所領」という意味だが、ローマの大土地所有は1カ所に固まった広大な土地ではなく、各地に分散した比較的小さい所領の集合であった。

また議員たちは民会の選挙でより高い地位の政務官に選出されることを望み、自分の財産で競技を催したりしてローマ市の平民の支持を得ようとするのが常であった。平民の中でも特に富裕なものには、紀元前3世紀頃から騎士(エクイテス)の身分が与えられるようになった。これは騎兵になるわけではなく、上層市民の資格であった。元老院議員は紀元前3世紀末の法で海外貿易などの商業行為をすることを禁じられたから、騎士身分がローマの商人・資本家として活躍することになった。彼らは高利貸しや属州の徴税などの国家事業を請け負って属州民を搾取し、得た富をイタリアの土地に投資してやはり大所領を経営した。

これら富者の出現の一方で、イタリアの中小土地所有農民は没落せざるを得なかった。重装歩兵として何年も従軍したものは、戦死したり留守中に農地が荒れるなどして窮乏化していった。彼らは富者に土地を売り渡し、無産市民になった。

無産市民:ラテン語で土地を持たない貧しい市民のことをプロレタリーと呼んだ。セルウィウスの市民団組織の最下位(等級外)がそれであるが、この言葉が近代のプロレタリアの語源である。

また属州からは安価な穀物が多量に輸入されて、イタリアの農民の商品穀物の生産はさらに圧迫された。無産化した多数の農民が首都ローマに流れ込んでいった。彼らは市民権は失っていなかったから、民会の投票権をもっており、政治家たちは彼らに穀物を安価に供給する法をつくったり、金品を与えたり、競技・ショーなどを催したりして、自分の支持者に取り込もうとした。このように国家や有力者から無産のローマ市大衆が受けたさまざまな援助を「パンとサーカス」と総称する。大衆がそれを有力者に要求して圧力をかけたり、またそれと引き換えに有力者に率いられて破壊的な行動をすることも顕著になっていった。

この場合の「サーカス」とは、まるい競技場で行われるさまざまなスポーツ・見世物の総称である。もっとも大衆はローマ市で遊んで暮らしていたわけではなく、公共建築や職人仕事で労働する人々であった。

政治権力をめざして争う有力者の間には、貴族やノビレスなどの名門で、元老院を中心に伝統的権威を重んじる閥族派と、同じ名門のものも含まれるが、より平民の権利の拡大をめざし、護民官などを拠りどころにする平民派との対立が生じてきた。彼らがローマ市の大衆に働きかけ、抗争に利用しようとしたのである。またこのような市民間の格差の広がりは、本来土地所有農民が軍隊の中核をなすというローマ軍制が危機に陥っていることを意味していた。

ローマの奴隷制

ローマの拡大にともなって奴隷の数も急速に増えていった。ことに地中海沿岸各地でローマに抵抗して敗れた人々は、何万人という規模で奴隷市場に売り払われた。イタリアでは特に奴隷制が発達し、それはギリシアよりも徹底したかたちをとった。
最低2〜3人の奴隷すら持てない市民は軽蔑されるほどであったという。奴隷のなかにはギリシア出身の教養のあるものもおり、彼らは主人の家で家庭教師などをつとめ、人間的な扱いを受けた。しかしイタリアやシチリアに最も顕著だったのは、大所領における集団農耕奴隷であった。シチリアでは紀元前135年と紀元前104年の2度にわたって奴隷反乱が生じ、一時は全島に広がった。奴隷はそのほか公共のため、警察や消火の任務にもついたが、市民の見世物とされた剣闘士奴隷の境遇は悲惨であった。
紀元前73年に、その剣闘士たちはトラキア人剣闘士スパルタクスに率いられてカプアの養成所を脱出し、農耕奴隷や貧農をも引き込んで反乱を起こした(第三次奴隷戦争)。一時は数万の奴隷軍がイタリア各地でローマ軍を破るほどであったが、祖国への帰還を果たすことに失敗して多くは処刑された。うちつづく奴隷の反乱は奴隷制に対するローマ人の態度を少しずつ変えていったと思われる。
紀元前1世紀のストア哲学者は奴隷への人間的な扱いを主張するようになった。最もローマ人は奴隷の解放はよく行い、ことに主人の下で管理人のような任務を務めた奴隷は経済的にも豊かになり、自由身分を容易に買いとることができた。ローマでは解放された奴隷には市民権が与えられ、社会的に成功する者も少なくなかった。ローマの奴隷制は1世紀までが最盛期で、以後はしだいに衰えるが、古代末期にいたるまで存続した。

ローマの矛盾
ローマ市民数の推移 ©世界の歴史まっぷ

ローマは5年ごとに人口調査を行なったが、その数値が断片的に諸史料に引用されており、それらを集成したもの。市民数は成人男性だけなのか女性・子供を含めているのかどうかはわからないものが多い。

内乱の1世紀
グラックス兄弟

ローマ社会のこのような危機的状況を打開しようとしたのが平民派のグラックス兄弟であった。
ティベリウス・グラックスは紀元前133年に護民官となり、土地所有農民層を再建して軍事力を回復するために無産市民への土地配分を行うとした。彼はリキニウス・セクスティウス法を適用して、富者が占有している土地を没収する法を提案した。元老院は激しく反対し、これに対してティベリウスは慣例を破って改革を進めて殺害された。

彼はそのころローマに王の遺言で譲られたペルガモンを属州とし、土地配分に利用しようとした。海外領土は元老院の管轄であった。また彼は反対派の護民官を罷免し、自身は護民官の再選を果たした。このいずれもが慣例違反であった。

ローマ市で市民同士が血を流して争う事態となって、これよりのちほぼ100年間ローマでは内乱状態が続くことになった。
紀元前123年、弟のガイウス・グラックスが護民官となり、兄の改革を再開した。彼は兄の失敗を繰り返さないため、騎士階級の支持を得ようとして元老院議員で構成されていた不当取得法廷に騎士を加え、アジア属州の徴税請負の任務を与えた。

当取得法廷は、ローマ属州総督が属州民を不当に搾取することを防ぐため、属州民の告発をうける法廷として紀元前149年に設けられた。

また貧民に対しては安価に穀物を提供する法をつくった。しかし元老院はまたも反撃し、ガイウスも仲間多数とともに殺された。土地の配分は中止され、富者の土地買占めはとめどなく進展し、ガイウスのたてた騎士のための法と貧民への援助策のみは存続して、ローマ社会の貧富の差は拡大するばかりであった。

ガイウス・マリウス
ローマ世界 同盟市戦争 共和政ローマ
ローマの支配

この間もローマはガリア人やアフリカのヌミディア王ユグルタと戦わなければならず(紀元前112年〜紀元前106年, ユグルタ戦争)、軍事力の低下が深刻になった。下層平民出身で有能な将軍のガイウス・マリウスは無産市民を志願させて訓練し、その兵士を用いてユグルタを破った。この軍制の改革(マリウスの軍制改革)は、将軍が下層民を自分のクリエンテス、つまり自分の私兵として権力闘争の道具とする道を開き、一層内乱に拍車をかけた。またマリウスはガリア人と戦うために連続して5年も執政官に選ばれた。
独裁者の出現を恐れていた元老院と共和政ローマも、いまや突出した力を持つ軍人政治家に異例の大きな権限を許さなくては事態を解決できなくなったのである。マリウスに対しては閥族派のルキウス・コルネリウス・スッラがライバルとなり、交互にローマ市の権力を握って相手党派を殺しあった。
また、ローマの侵略戦争に協力させられていたイタリアの同盟市は、ローマ市民権を持たないために戦利品や土地の分配の利益を与えられず、次第に不満を募らせていた。平民派は彼らへの市民権付与を提案したが閥族派が反対し、ついに紀元前91年、同盟市は一斉に反乱をおこした(同盟市戦争)。
ローマはイタリアの全自由民に市民権を与えて譲歩した。ローマはこの結果、全イタリアを領域下におさめることになり都市国家としての性格は失われた。しかしローマ市の民会などの機関は都市国家時代のまま続けられており、遠隔地の市民は実際には政治に参加できないという矛盾が明らかであった。

グナエウス・ポンペイウス

東方ではポントゥスの王ミトリダテス6世が反ローマの戦争(ミトリダテス戦争)をおこし、これを破ったグナエウス・ポンペイウスが台頭してきた。彼も伝統と慣例を破って、若くして強力な命令権をおび、そのほか地中海の海賊やスパルタクスの反乱(第三次奴隷戦争)を鎮圧した。
彼と共に奴隷反乱を抑えた大富豪のクラッスス、天才的な軍人で平民派のユリウス・カエサルも有力になり、元老院が彼らの活動を抑えようとしたために3人は紀元前60年、密約を結んで国政を彼らの手で分担した(第1回三頭政治 紀元前60年〜紀元前53年)。ポンペイウスは東方で戦った自分の兵士への土地配分を行い、カエサルはガリア統治権を委ねられ、クラッススはパルティアとの戦争を受けもった。クラッススは戦死したが、カエサルはガリア征服に成功して声望を高めた。
元老院はポンペイウスと結んでカエサルを公敵と宣言したので、彼は部下を率いてローマを占領した。

ガリアから当時イタリアの北の国境であったルビコン川まで来たカエサルは、「さいは投げられた」との言葉を発して川を渡り、ローマに進軍した。

エジプトに逃れたポンペイウスは暗殺され、カエサルは東方やアフリカの元老院派をも制圧して独裁権力を確立した(紀元前46年)。

この時カエサルはエジプトに赴き、内乱で窮地にあったクレオパトラ7世を助け、王位につけた。2人の間にはカイサリオンという子供が生まれた。
ユリウス・カエサル
カエサルは任期10年の独裁官となり、最高軍司令官・最高神官の地位を占め、護民官の神聖権をも手中にして実質的な君主のごとき存在となった。彼は兵士と民衆には極めて人気があり、元老院派の降伏者は寛大に赦して、内乱終了後精力的な改革を進めたが、今や民会は有名無実のものとなっていた。彼は部下の騎士を元老院議員として定員を600から900としたが、元老院には権限を許さなかった。
内乱の1世紀
共和制ローマの独裁官

退役兵のためには多数の植民市を建設して入植させ、また一般民には安価な穀物を供給し、豪華な剣闘士や野獣のショーを数多く催した。自分の名をつけたフォルムを建てるなど、公共建築も盛んにした。属州人にはローマ市民権を惜しみなく与えた。これらの仕事を彼は自分の部下の騎士や解放奴隷に行わせたが、このようなカエサルの政治はのちの元首・皇帝の先駆けをなすといえよう。

カエサルの独裁政治は性急に進められたから、なお生き残っていた共和派は反感を募らせた。ことに紀元前44年にカエサルが終身の独裁官となり、またパルティア遠征をも計画して、そのために「王」の称号を得ようとしていると噂されるにいたって、カッシウス、ブルートゥスらがカエサルを暗殺した。兵士や民衆は彼の死を悲しみ、カエサル派のマルクス・アントニウスがそれを利用してカエサルを神格化し、ブルートゥスらは追放された。

この時元老院のリーダーは修辞家・哲学者でもあったキケロで、彼はオクタウィアヌスを支持しながらブルートゥスらを救おうとした。キケロはマルクス・アントニウスに憎まれ、やがて殺された。
オクタウィアヌス

マルクス・アントニウスとレピドゥス、そしてカエサルの遺言でその養子とされた、遠縁で19歳のオクタウィアヌスの3人が国家再建の任を負い、第2回三頭政治が成立したが平和はもたらされず、内乱が再開された。

レピドゥスはカエサルの部下の軍人で、他の2人に比べて力がなく、オクタウィアヌスによって最高神官にされて政治から遠ざけられた。

ついにオクタウィアヌスが、東方に赴いてエジプト女王クレオパトラ7世と結んだマルクス・アントニウスに対してイタリアと西方属州から忠誠の誓いをとりつけて戦いを挑み、紀元前31年アクティウムの海戦で彼らを破り、翌年マルクス・アントニウスらは自殺してオクタウィアヌスはエジプトを併合した。こうしてローマの内乱はようやく終わった。

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