李朝 西夏遠征 甘州ウイグル王国 国際関係の変化 西夏の成立 遼の成立 宋の統一 遼朝 天山ウイグル王国 西夏 カラハン朝 北宋 11世紀の東アジア地図
11世紀の東アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

天山ウイグル王国


回鶻

チャガタイ・ハン国

天山ウイグル王国 (11世紀〜13世紀)
現在の新疆ウイグル自治区に存在したウイグルのつくった王国である。西ウイグル王国、高昌回鶻、西州回鶻とも称される。都はビシュバリク(新疆ウイグル自治区ジムサル県北部の北庭故城がビシュバリクの遺構に相当する)。主に東西の中継交易で栄えた。1211年モンゴルに従属。ウイグル駙馬王家。

天山ウイグル王国

内陸アジア世界の変遷

内陸アジア
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

トルコ化とイスラーム化の進展

中央アジアのトルコ化

9世紀半ば、天災とシベリア方面からのキルギスの侵入により、ウイグル遊牧帝国が崩壊すると、帝国を構成していたトルコ系民族は、モンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯へと大移動を開始した。
彼らのうち甘粛回廊かんしゅくかいろうへ落ち着いた集団は、甘州を中心に「甘州ウイグル」と呼ばれる勢力を形成し、天山山脈東部に移った集団は「天山ウイグル」と呼ばれる集団を形成した。さらに西方に移動した集団は天山北麓のトルコ系部族カルルクに吸収され、このカルルク部族連合を基盤として、カラハン朝が建国された。

詳説世界史研究

歴史

天山ウイグル王国の成立

  • ウイグルが崩壊した後、西に逃れた15部のうち、河西(南流する黄河中流の西。現在の甘粛省付近)より西へ移動して天山山脈の北東麓に落ち着いた一部が興した王国である。なお、別の一部は河西に入り甘州回鶻と呼ばれるようになり、更に一部は西へ移動してベラサグンに至り、カルルクと合流して後にカラ・ハン朝を作った。
  • 839年、回鶻の第12代彰信可汗しょうしんかがんが、ソグド系と思われる大臣安允合に暗殺され、さらに連年の天候不順による飢饉に加え、翌840年には雪害による家畜・遊牧民の大量斃死のためにキルギスの反乱に抗しきれず、ウイグル王国は遊牧政権として完全に崩壊してしまった。このためウイグル人たちはゴビ砂漠以南の華北や甘粛方面、天山山脈方面のオアシス都市地域へ大量に流出することになった。この混乱期に、鉄勒(トクズ・オグズ)の一翼であった僕固(ボクトゥ:Boqut)氏の首長僕固俊に率いられた一団が当時、可汗浮図城と呼ばれていたビシュバリク地方へ進出し、これを拠点としておさえた。これが西ウイグル王国の直接の基盤である。
  • 9世紀中頃、擬ヤグラカル王朝(エディズ氏:Ädiz)によるウイグルの最後の可汗である㕎馺可汗の外甥であった厖特勒(ほうテギン)が、ビシュバリクの西部にあった天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とした。ユルドゥズ地方は夏季の放牧地として豊潤であったが、同時に焉耆えんぎなどがあったタリム盆地と東の高昌などがあったトルファン盆地とを結ぶ街道の要衝でもあった。厖特勒は焉耆を獲得して可汗(カガン)を名乗り、この都市を最初の首都とした。
  • 856年には唐から「懐建可汗」の称号を受けて嗢禄登里邏泪没蜜施合倶録毘伽懐建可汗(uluγ täŋridä qut bolmïš alp külüg bilgä 懐建 qaγan)と名乗った。

天山ウイグル王国の「イディクト」

  • 以降、ウイグルのカガンに即位した人物は数名判明しているが、西方のイスラーム政権でも東方の宋、遼、金の諸王朝でも断片的な情報のみが伝わる程度で、ウイグル王国の王統すら判明していない。
    このため、王国の具体的な記録はモンゴル帝国時代まで待たねばならない。ウイグル西遷の後、何時からかは判然としないが、後期には天山ウイグル王国の君主は伝統的な「カガン」から「イディクト」という称号を用いるようになった。
    元は遊牧民であるウイグルは、この地のオアシス都市国家の影響を受けて定住化するようになり、東西交易、いわゆるシルクロードの中継地点として大いに栄えた。
  • 元来ウイグル族は突厥など同じくシャーマニズム信仰を有していたが、『カラ・バルガスン碑文』によるとウイグル時代の初期、牟羽可汗ぼううかがんが洛陽滞在時の763年頃にマニ教の僧侶の感化を受けて僧侶4名を伴って帰国して以来、ウイグル王侯にマニ教が広く普及した。マニ教をもたらしたのはソグド人であったと見られている。この地に来てからは仏教・景教(ネストリウス派)なども信仰するようになり、在来の定住民(印欧語族イラン系言語の話者)と融和した。このことにより中央アジアのテュルク化が進み、後にトルキスタンという言葉が生まれることになる。

モンゴル帝国時代 ウイグル駙馬王家

  • 12世紀に入り、東から耶律大石がこの地を征服して西遼を建て、ウイグル族はこれに服属するようになる。
  • 13世紀にモンゴルでチンギス=ハンが勃興すると、1211年にウイグル国王(イディクト)バルチュク・アルト・テギンがこれに帰順した。『元朝秘史』によるとチンギスは彼の帰順を大変に歓迎して息女の一人アル・アルトン(『集史』ではイル・アルタイ Īl-Altaī)を娶らせ駙馬(キュレゲン)とした。さらにバルチュク国王は『世界征服者の歴史』などではジョチなどチンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重された。以後モンゴル帝国ではウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る事となる。モンゴル帝国および元朝ではウイグル出身官僚がモンゴル宮廷で多数活躍し、帝国の経済を担当するようになった。この時代『世界征服者の歴史』や『集史』などではウイグル王国方面を指して「ウイグリスターン(Ūyghristān)」と呼んでいる。
  • モンゴル帝国以後はイスラーム化した。
  • 現代のウイグル・ウイグル人への民族的連続性については、必ずしも一致をみないとする捉え方が存在する。

Wikipediaより

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